よんよんまる
第38話 横顔
「やっすい粉のコーヒーしか出されへんけど」
「インスタントにはインスタントの良さがあるわ。高けりゃいいってもんじゃないのよ」
五月三日、母の荷物を和泉多摩川の新居へ搬入した翌日、響のワンルームを花音が一人で訪問していた。
詩音がフランスから帰って来た日に喧嘩して以来、響と詩音は一度も口をきいていない。もうかれこれ一ヵ月になる。記者会見の日は一緒にいたものの、詩音は響と目を合わせようとすらしなかった。
「詩音、どうしてる?」
「もう最悪よ。ピアニスト人生、終わっちゃうんじゃないかしら。全然ピアノ弾かないの。あんなに大好きだったピアノが楽しくないんですって。信じられないわ」
「そ……か」
原因が自分にあることなど百も承知しているが、響としてはなんとかして詩音とちゃんと話がしたかった。このまま彼との関係が終わってしまったら、悔やんでも悔やみきれない。
「詩音も頑固だから困っちゃうわ。あんな王子様みたいな顔して、中身はちっとも王子様じゃないんだもの。頑固だし、寂しがり屋だし、独占欲強いし、あの子と結婚する女性は大変だわ。束縛きつそう」
「そうなん?」
「だって、既に響を束縛してるじゃない。響と一緒に『よんよんまる』ができなくなって、意地になってるのよ。響を独占したいんだわ。そのくせ、それを認めるのが嫌なのよ。ほんと頑固で困っちゃう」
「俺はそんな詩音が好きやねんけどな」
それを聞いて、花音は「はぁ」と溜息をつく。
「弟に嫉妬する姉なんてね」
「うん……え?」
響はコーヒーの入ったマグを持ったまま、今の花音の言葉の意味を考えた。弟に嫉妬、と言ったように聞こえた。
「あのね、実は詩音と喧嘩しちゃったの。あんまりやる気がないもんだから『ピアニストを続ける気あるの?』って責めたのよ。そしたら『もう自分はピアノなんか弾けない』なんて言い出すものだから、私プチンって切れちゃった」
「花音が?」
「うん。それでね、『ピアニスト辞めるならマネージャーも要らないわね!』って言って出て来ちゃったの。こうなったら意地の張り合いよ。私がここに来るのはわかってる筈だから、ここに連絡するしかないのよ、詩音は」
無茶苦茶だ。あの意地っ張りの詩音が連絡して来るとは思えない。ただでさえ一ヵ月も口をきいていないのだ。どうする気だ。
「そういうわけだから、今日はここに泊めてちょうだい」
「は? え? いやそれはあかんやろ」
「どうして?」
「いや、ほら、だって、いろいろあれやん」
「大丈夫よ。そのつもりでちゃんと着替えもパソコンも持って来たわ」
そういう問題ちゃうやろ、と言いたかったが、ここで断れば花音は何を仕出かすかわからない。この姉弟の行動は予測不可能なだけに、響は渋々了承した。
夜、ベッドを花音に譲って床で寝ると言い張る響に、「じゃあ私も床で寝るわ、私をベッドで寝せたいのなら、あなたもベッドで寝なさい!」などと無茶を言って、結局花音は響と一緒にベッドに潜り込んでいた。
「ごめんなさいね、寝袋を持って来るのを失念していたわ」
「そういう問題やのうて……ま、ええわ」
「大丈夫よ、私、何もしないから」
それは俺が言う台詞やろが……などと思っても言えないのが、響の響たる所以である。
そもそもこの期に及んで未だ連絡の一つも寄越さないとは、詩音は一体何を考えているのか。響はともかく、花音の方にさえメールの一つも入っていないのだ。ここまで来ると詩音の意地っ張りも相当のものである。
「詩音はね、初めて響の『ゴリウォーグのケークウォーク』を聴いたあの日から、ずっと心の中にあなたを求めてたの」
突然、花音が話し始めた。灯りを落とした部屋の中で、彼女の声だけが静かに響く。
「二十年間、ずっとずっと響の幻影を追い続けてたわ。どれだけ上手になっても、あの子の中に生きている大神響は更にその上を行くピアニストに成長していたのね。だからいつまでも追いつけない絶対的な存在だったのよ」
そないな事あらへん、響は心の声を飲み込む。
「そうやって詩音の中で静かに息づいていた記憶が、半年前、突然隅田川で活動を始めたの。手の届くところにあの大神響が、信じられない演奏をするあの子がいる。ライバル意識と憧れと、その両方で気が狂いそうになっていたわ。見ていて笑ってしまうくらい。ほら、あの子って負けず嫌いでしょ?」
「そやな」
クスクスと二人で笑う。触れている肩が笑いで震えるのをお互いに感じて、ますます笑ってしまう。あのプリンス詩音の負けず嫌いを知るのは、世界広しと言えど恐らく自分たち二人だけだろうと思うと、それすらおかしくなってくる。
「それが急にピアノを弾かないなんて。二十年も想い続けて、遂にユニットまで組んで、これからって時にこんなことで離れるなんて納得できないんだろうと思うの。ねぇ、問題になっているのは響じゃなくてお父さんでしょう? お父さんに響の事を左右される筋合いは無いわ」
寧ろ響こそがその台詞を言いたかったに違いない。花音もそれを知っていて代弁しているのだろう。
「詩音も必要であれば法的手段も辞さないって言ってたわ。あとは響次第よ」
いずれそう言われるような予感はしていた。ただ、自分はどうすべきなのか、響には判断がつかなかった。
「なぁ……花音はどう思う?」
花音がチラリと響の方に顔を向ける。思いがけず距離が近く、響は慌てて顔を逸らす。一緒のベッドに潜っているのだから近いに決まっているのだが、こういう不意打ちは心臓に良くない。
しかもただでさえ美しい花音の顔が、薄暗がりでは詩音のそれに見えてしまう。
長い睫毛とゆで卵のような滑らかな頬。花音にさえ詩音を求めてしまうのはどういうことなのか。
「そうね。ピアノ界を敵に回してまで『よんよんまる』を続ける必要はないと一度は思ったわ。だけどそれによってピアニストを辞めてしまうのであれば、それは本末転倒というものでしょ。考え直さなければならないと思うのよね。いくら機嫌を取ってピアノを続けさせたとしても、あんな『心ここに在らず』な演奏なんてお客様にお聴かせできないわ」
「そやな」
「詩音にはパーフェクトな演奏をして欲しいの。その為には響の力が必要だわ」
「詩音の為なら……」
不意に出た言葉だった。詩音の為ならなんだってできる気がした。
だが直後の花音の言葉に、一瞬、彼の思考は全停止した。
「ううん、私の為」
「……え?」
「詩音と一緒に楽しそうに弾いてる時の響の横顔が好き。響があんなに楽しそうな顔をしているのは『よんよんまる』の時だけだもの。あの横顔を見るためなら、私は何でもするわ」
響の目に映った花音は、詩音そのものだった。寧ろ花音の中に詩音を見ていると言った方が正しかった。
視線が交差する。二つの心臓が早鐘のように鳴り響いていた。
「詩ぉ……あ、いや」
響は慌てて背中を向けると、壊れたマシンガンのようにう一気に捲し立てた。
「すまん、俺『よんよんまる』なんとかして守る方向で考えるよって、ピアニスト辞めんといてくれって明日詩音に言うてみる、せやから今日はもう寝よな、おやすみ花音」
「うん、おやすみ、響」
苦笑いで答えた花音は、彼が狼狽えた本当の理由を履き違えたまま、その大きな背中に寄り添った。
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