第37話 引っ越し
高速道路は渋滞し、公共の交通機関はスーツケースの旅行客で賑わっている四月二十九日。
世間ではゴールデンウィークと呼ばれる大型連休の初日、響は住み慣れた高槻の実家で、母とともに朝から引っ越しの準備に追われていた。
世間様は海外旅行だ実家に帰省だと浮わついているが、この二人にその余裕はない。正午には引っ越し業者が来て荷物の積み込みが始まるのだ。
元々物の少ない家だ、午前中だけでほとんど片付いてしまう。隣の岩崎さんだけに今日引っ越しすることを伝えてあり、彼がゴミなどの後処理をやってくれる手筈になっている。あとは引っ越し業者が来るのを待つのみだ。二人にはこの時間が一番長く感じられた。
正午ピッタリ、呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。
「はい、どちら様ですか」
「こんにちは、瀬川です」
引っ越し業者は、それを名乗らないことになっていた。誰にも知られずに引っ越しする人のために、個人名を名乗る事になっている。今日は『瀬川』を名乗ると伝えてあったので、響は安心してドアを開けた。
ドア開くと、普通のTシャツにジーンズのお兄さんがニコニコしながら「こんにちは~、こないだの件ですけどね~」と明るく入って来る。
玄関のドアを閉めると、彼は先程までと打って変わって冷静に話し始めた。
「今回の責任者の瀬川と申します。これから一時間以内に積み込んで、一旦我が社の倉庫でお預かりした後、五月二日に転居先の東京都狛江市の方にお届けします。作業を始めて宜しいですか?」
「はい、お願いします」
そこからは早かった。彼はトラックの中で待機していたもう一人の作業員と二人で、驚くほど要領よく荷物を積み込んで行った。
作業着ではなくTシャツとジーンズというのも、引っ越しを目立たなくするためなのだろう。そして個人名を名乗るのも。トラックに社名が入っていないのも。
徹底したプロのサービスだと響が感心したのも束の間、母の「響!」という声で彼は現実に引き戻された。
父が立っていたのだ。
何故? わざわざ昼間の時間を選んだのに。
顔にそう書いてあったのだろうか、父はニヤリと笑って脂に汚れた黄色い歯を見せた。
「そんな顔しなや。今日は連休の初日やし、お前の顔見に来てやったんやで。何の騒ぎやねん。まさかお前引っ越す気ぃちゃうやろな?」
引っ越し業者がチラリと母に視線を送る。母の助けを求めるような目に、瀬川さんは小さく頷いてスマホをチラリと見せて外に出る。通報してくれるようだ。
「なんで解散したんや、響。あのままの方が儲かったやろが」
「あんたに解散させたられたんやないか。ふざけた事言いなや」
父は灰皿が無いのも構わず、タバコに火をつけた。ゆっくりと吸い込むと、響に向けて煙を吐いた。
「解散したんはお前のせいやで。俺ちゃうわ」
「なるほどな。こうやってなんでも母さんのせいにして、母さんが自分の全てを否定してまうまで追い詰めたんやな」
「そんな話はどうでもええ。ええか、解散したんはお前の意志や。俺は解散せぇとは言うてへん。全部お前の責任や。一人でも稼いで
「なんでそないな事、あんたに言われなあかんのや」
響の問いに父は下衆を絵にかいたような笑いを見せた。
「水臭い事言いなや。俺らは『家族』やろが。なあ、響」
「ふざけんな! あんたに『家族』なんて言われたかねえよ!」
響の突然の叫びに、母は両手で口元を押さえてへたり込む。
「なんや、威勢がええやんか。また殴るか? あ? ええで、また診断書書いて貰うし、ナンボでも殴ったらええわ。ほれ、早よしぃや」
「やかましわ、ここから出て行け! 俺らの前にそのツラ、二度と晒すんじゃねえ!」
そこへ岩崎さんが「大神さん、今警察に通報したから」と駆け込んで来た。父の視線が彼の方へ移る。細身で小柄な岩崎さんの一回りは大きいであろう父が、上から見下ろすように彼の胸倉を掴んだ。
「なんやお前は、誰やねん、要らんことしなや」
岩崎さんの眼鏡がずり落ち、母が悲鳴を上げる。響が止めに入ろうとすると、あろうことか、母がバッグの中から果物ナイフを出してきて鞘から抜いた。
「その人を放してください!」
ガタガタと全身を震わせながら両手で果物ナイフを握り、母はその刃先を父の方に真っ直ぐ突き出した。
「あかん、大神さん、それはあかん」
慌てる岩崎さんを突き飛ばすように放すと、父はニヤニヤしながら母の方に向き直った。
「刺してみぃ。ほれ、どないしたんや。夫婦やんか、好きなようにしてええねんで?」
父が母に近寄って行く。母は両手にしっかりとナイフを握り、それを父に向けたまま、恐怖のあまり硬直してしまっている。血の気が引いて真っ青になった唇から何か言葉が漏れているが、もはや誰にも聴き取れない。
岩崎さんを抱き起した響は、慌てて母に駆け寄った。それと同時に追い詰められた母が父に向けてナイフを突き出す。
「大神さん!」
岩崎さんの叫び声と同時に響が両親の間に割って入った。
「響……」
彼の右手は母の持つ果物ナイフを握っていた。指の間から一滴、また一滴と鮮血が滴り落ちる。
「頼む。これ以上、俺ん中の『お父さん』の思い出を穢さんといてくれ」
遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえて来た。
父は蔑むように母を一瞥すると「何処へ逃げても同じや。響の居場所なんぞマスコミがいくらでも教えてくれる」と捨て台詞を残して出て行った。
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