第36話 消えたプリンス

 記者会見は意外な形で話題になっていた。新聞も週刊誌もテレビのワイドショウも、こぞって『プリンス、キレる!』と騒ぎ立てたのだ。

 当然SNSでもトレンドのトップはこの話題であり、響の家庭環境や傷害事件に関する事よりも、寧ろ詩音のあの言動の方が大きな話題となっていた。

 幸い、例の非常識な発言をした記者に非難が集まり、詩音には賛同の声が、また響には同情の声が集まったが、事態はそれだけでは収拾しなかった。


 音楽界から圧力がかかったのである。

 ここへきて漸く詩音は姉に言われた「これまでお世話になったピアノ界の先生方の顔を潰す気なの?」の意味を正しく理解した。ピアノ界もまた、大路詩音という逸材を放っておけなかったのであろう。

 そのため、詩音を直接指導したことのあるピアノ界の大御所や重鎮と呼ばれる人たちから「演奏活動に専念するように」と釘を刺されることになってしまったのだ。


 ここまでされてはもう身動きが取れない。響と花音は詩音の意見を待たずして『よんよんまる』を解散した。

 活動休止ではない、『解散』である。ここまでしなければ音楽界は納得しないだろうという判断からだ。


 だが、これには大きな誤算があった。マイナスの効果を生んでしまったのだ。詩音がピアノを弾かなくなってしまったのである。

 ピアニストは練習をサボると顕著に音に現れてしまう。移動などでピアノに触る事ができない時以外は、詩音はほとんど毎日最低でも六時間は弾いている。

 その詩音が二時間もすると辞めてしまうのだ。時間があるのに、だ。

 どうしたのかと姉に問われても「楽しくない」だの「気持ちが乗らない」だのと、今までの詩音が口にしたことが無いような理由が返って来る。そして弾いている音を聴いても、心ここに在らずなのが手に取るようにわかるのだ。


「何のために『よんよんまる』を解散したと思ってるの。詩音がきちんとピアノに向き合うためでしょう? ユニット結成する前は、ずっと一人で弾いていたじゃないの。どうしちゃったの?」

「ユニットを結成する前と、した後では違うんだよ」

「同じじゃないの。一人で弾いているだけでしょう?」


 花音は苛立ちを隠そうともせず弟に詰め寄る。だが当の詩音はぼんやりしていて、彼女の話を聞いているのかどうかすら怪しい。


「そんな単純なものじゃないよ。響と僕はそんな簡単なもんじゃない」

「組んでいたのはたったの半年だけじゃないの」

「違うよ。幼稚園の時から響は僕の心に住んでたんだ。モノクロームの記憶が半年前に色づいただけだよ」


 空っぽの木偶人形のような詩音を相手にしていると、花音の心も折れそうになって来る。だが詩音はもうとっくに折れてしまっているのだ。


「一度色彩のついた景色は、もう元には戻れないんだよ。僕から響を取り上げるっていうのは、そういう事なんだ」




 一方、響の方は一旦大阪に戻り、お世話になった人たちのところに挨拶に回った。今回の事情を話し、親子共々東京に引っ越して再出発することを報告すると、誰もが激励の言葉を贈ってくれた。こんなにも自分たち親子を愛してくれていることに、ただただ感謝しかなかった。

 挨拶回りが終わると、響は母にこの部屋であと何回飲めるかわからない安い粉のインスタントコーヒーを淹れた。


「あのな、今俺が住んどるところ、小田急線の和泉多摩川いうとこやねん。多摩川沿いの静かなとこや。そこに俺と母さんの家、借りといたからな。一階でな、小っさいけど庭のついとるとこやで。今度から花も育てられるで」

「そうなん? お花育てられるなんて、ええとこ見つけてくれたんやね。ありがとうね」

「野菜も育てような。トマトとピーマン」

「ナスビもね」


 それを聞いて響がフッと笑う。


「東京はナスビ言わへんねんで、ナスやねん。ナンキンもナンキン言うたら通じひん、カボチャやで」

「慣れるまで大変やね。でも頑張らな」


 母はご近所さんと上手くやって行かなければならないのだ。母の事だ、きっと仕事は続ける。そうなると、たくさんの人と顔を合わせて話をすることになるのだ。

 母が東京で暮らすのは、響のそれとは全く性質が異なるのだということに、彼は今更ながら気づいた。


「すまんな、俺が要らんことしたばっかりに、母さんまで引っ越しせなあかんようになってもーて」

「ちゃうちゃう、そういう意味じゃないんよ。あんたのせいとちゃうからね、ごめんね」


 響が謝ると、母はその倍くらい謝って来る。わかっているから、響もそれ以上はもう何も言わない。

 彼はぐるりと部屋を見回すと、急に表情を引き締めた。


「部屋は五月から借りてるから、四月二十九日、ゴールデンウィーク初日の昼間に引っ越しするで」

「昼間? 夜中にコッソリの方がええのんちゃうの?」

「夜やと目立ってしゃーない。親父も昼間は仕事しとるし、夜になったら来るかしれんし。引っ越し屋も事情のある人専門の『昼逃げパック』ってのを頼んどいた。向こうはプロやから、引っ越し前にこの家の下調べに来る。そん時に、車を停める場所とか荷物の量とか見に来るから。トラックも運送屋の名前が入っていない地味なやつで来る。さっと来て一時間で詰め込んで、さっと引き揚げる。予定では正午から十三時の間や。メモはせんといてな。親父が来て何か見られるとあかんし」


 母は頷くと復唱を始める。


「四月二十九日正午から一時間で引っ越し、その前に下見に来る、それまでに支度しといたらええねんな?」

「ギリギリまで準備したらあかんで。段ボールが積んであるのを親父に見られたら、引っ越しするのがバレてまうしな。俺もおるから大丈夫や」

「そやね」


 とは言うものの、母の顔には不安が色濃く浮かんでいる。最近ではこんな弱気な顔をよく見せるようになった。


「大丈夫や。追跡されんように、トラックは一旦引っ越し屋の倉庫に入るらしいねん。それで三日後に出発する。だから向こうの家には五月二日に入るようになる。向こうの家がバレることはない」

「お母さんどうしたらええの?」

「大丈夫、引っ越しの時も、移動の時も俺が一緒や。大丈夫や」


 これまで自分を育ててくれた母、これからは自分が守って行く、響はそう決めていた。自分の家庭を持つことなど、これっぽっちも考える余裕はなかった。

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