第34話 活動休止
それから数日後、響は花音に『活動休止のお知らせ』を出すように頼んだ。この状況で活動が続けられるわけがないのは、花音の方でも百も承知だった。
当然詩音が納得するわけがなく最後の最後までグズグズ言ってはいたが、「これまでお世話になったピアノ界の先生方の顔を潰す気なの?」という姉のジャブを喰らって、最後は不貞腐れたまま黙ってしまった。
姉だって戸惑っていたのだ。あの日詩音は激高して響に『お前』と言った。彼が相手に対して『お前』と呼ぶなど、今まで一度たりとなかったのだ。それだけ彼も追い詰められていたのだろう。花音はこれからの事を考えると気が重くなった。
活動休止を発表した『よんよんまる』を待っていたのは、予想をはるかに上回る反響だった。彼らの人気は、本人たちが思うよりもずっと大きなものとなっていたようだった。
テレビのワイドショウでは大きく取り上げられ、週刊誌にもある事ない事いろいろ書かれていた。SNS上にも憶測が飛び交い、手の付けられない状態になって行った。
彼らの生活にも大いに影響した。
活動休止について、マスコミや音楽界から問い合わせが殺到し、花音はその対応だけで他の仕事に一切手が回らないほどになっていた。
このままでは詩音も花音も仕事にならない、たまりかねて響が成城の詩音宅にやって来た。
「記者会見を開こう。俺が自分で話すわ。みんな俺が何をしたのか聞きたいんや」
「でも響、それって響がお父さんを殴ったことを認めるって事よね?」
「そうや」
「ね、冷静に考えてちょうだい。響の家庭環境も話す羽目になるかもしれないのよ? いいの?」
「詩音にこれ以上迷惑かけるくらいやったら、なんぼでも喋ったるわ。その方がよっぽか気が楽や」
活動休止を決めてから、響は詩音と顔を合わせていない。響が大路家に来ても、詩音は自室から出てこないのだ。
「詩音、居てるんか?」
「部屋に籠ってるわよ。響が来たって言ったら鍵かけられちゃった」
「嫌われてもーたな」
「そんなんじゃないのよ。活動休止宣言を出した私に怒ってるんだわ」
こうしている間にも花音のスマホのバイブレーションの音が微かに聞こえてくる。見なくてもわかる、どうせ『よんよんまる』についての問い合わせだ。
「Esちょい高めやな」
「え? 何が?」
「花音のスマホのバイブ音。俺のはFisや」
この男には絶対音感があったのだ。全ての日常音に音階がついている。
経済的制約のおかげで、ゲームなどの人工音に近付くことなく、あらゆる日常音を音楽につなげて行った響。
これだけ感受性の豊かな人間が幼い頃に体験した父のDVは、彼にどれだけの影響を与えたのだろうか。彼も詩音もお互いを必要としている、やはり彼と詩音を離してはいけないのではないか、と花音は気持ちが揺れる。
「詩音、仕事の方は順調?」
「まさか。『よんよんまる』が活動再開するまで、何も仕事入れないでくれって。頑として譲らないのよ」
「詩音もあんな綺麗な顔して頑固やしな」
花音が溜息と共に大きく頷く。
「そんなんでピアニストなんかやってられないでしょって叱ったんだけど、それならピアニストなんか辞めるって。こんな気持ちでピアノなんか弾いたってまともな音楽にはならない、お客さんに聴かせられる音じゃないって言うのよ。確かに今の詩音の音は、人様に聴かせられるものじゃないけど」
「俺のせいやな」
「違うわ。あの子が響に頼りすぎてるだけなのよ。ピアニストとして失格だわ」
コーヒーカップを両手の中で弄びながら、花音はふぅっと溜息をつく。コーヒーに映った弟そっくりの顔が波を立てる。
「前はね、あんなこと無かったのよ」
「ん? あんなこと?」
「何かあっても心が揺れ動いて演奏できないなんてこと無かった。どんなコンディションでも、きちんとお客さんの満足のいく演奏をしてたのよ。そりゃもう、私の目から見ても完璧なプロだったわ」
確かにそうだな、と響も思う。詩音は完璧な王子様だった。
どんな時でもあのプリンススマイルを崩すことなく、徹底して上品で、話術も巧みで、ピアノの前に座るとパーフェクトな演奏をして見せた。それが『大路詩音』のクオリティだった。
「響に出会ってからどんどん弱くなってしまった。ずっと小さい頃から響の背中を追ってたのよ、響のようなピアニストになりたいって。それが隅田川であなたに会って、一緒に仕事することが増えて、ユニットを結成して……もう響なしには生きられないみたいに」
「俺が干渉しすぎたんやろか」
「そうじゃなくて」
花音が顔を上げる。目が合って、響は視線をどこに置いたらいいかわからなくなる。
「私も詩音も、響を必要としてるのよ。あなたの事が好きなの。家族みたいに大切なの」
「嬉しいけど……そないなこと言われても」
「だから、一人で抱え込まないで欲しいの。響のお家の事だし、私たちに干渉されたくないかもしれないけど、だけど、私たちにもっと頼って欲しいのよ」
響は黙って頷くことしかできなかった。彼らに頼れば、彼らが巻き込まれることは容易に想像がつく。だが、断っても花音はきっと世話を焼いて来るだろう。
彼らとの関係がどうあったとしても、自分は母を父から守り抜かなくてはならない。
「記者会見は私の方でセッティングしておくわ。でも、その会見には当然『よんよんまる』の相棒である詩音と、マネージャーの私も同席するわよ。それについては反論は許さないわ」
「うん、わかった。お願いします」
その日も詩音は結局最後まで顔を出すことは無かった。
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