第33話 父の名前

「お父さん、離婚したって言ってなかったっけ」

「別れただけや。離婚しとらん」

「ちょっと待って、もう一度整理しましょう」


 詩音が帰国した翌日、響は成城の大路家のリビングで詩音と花音と三人でコーヒーを飲んでいた。勿論、例の話を説明しながらだ。


「お父さんの暴力に耐えられなくなったお母さんが、響を連れて家を出たのが、小学一年生の時ってことね?」

「うん」

「で、二人は京都の久御山というところから、大阪の枚方に逃げたのね」

「そう、そこに母の妹が住んどる。ひらパーの近く」

「そこで何日か過ごして、お父さんに見つからないうちに、高槻に部屋を見つけてすぐにそこに移り住んだのね」

「そやな。枚方に住んでも良かってんけど、妹の近くに住んどったら親父にばれてまうから、わざと川向かいの高槻にしといた方がええって妹に言われてそうしたらしい」

「なるほどね。お母さん、苦労されたのね」


 一つずつ整理するように、花音がレポート用紙にまとめている。たったそれだけの事なのに、響にとっては女神が舞い降りたくらいに心強く感じていた。

 家で飲む安い粉のインスタントコーヒーとは全然違うこの家のコーヒーも、自分の家には存在しないふっかふかのソファも、背後で静かに流れるハイドンも、何もかもが響の心を落ち着けるのに役立っていた。


「当時のDVの物理的な証拠は一切残ってないのね」

「そうらしい」

「二十年前じゃ歯医者さんのカルテも残ってないわよねぇ」

「親父もそう言っとった」


 一つずつ確認しながら書き込む姉と、向かい合ってきちんと答える響の話を聞きながら、詩音は一人離れて窓際でコーヒーを飲んでいる。

 外は桜が満開で、黄色い帽子の新一年生たちが上級生に手を引かれて下校していくのが見える。

 響はあれくらいの頃に母に手を引かれて父親から逃げ出したのかと思うと、詩音は胸が押し潰されそうになる。


「じゃ、お父さんの現住所は?」

「わからん」

「当時住んでた家は?」

「住所は忘れたって母が言っとった。俺は近所の散歩コースしか覚えてへんから、家はわからへん。『流れ橋』言う欄干の無い橋をよう散歩した」

「それ、宇治の近くじゃない?」


 唐突に詩音が割り込んだ。


「え? ああ、そやけど」

「よく時代劇の撮影とかやってるところだよね。僕、今度そこでCMの撮影があるんだ」

「……そうか」


 響の顔を見て、詩音は言わなければ良かったかと後悔した。

 彼は流れ橋で『遊んだ』とは言わなかったのだ。『散歩』というのは、優しかったころの父との思い出なのか、暴力を振るうようになった父から逃げるように母と二人で散歩したのか。

 いずれにしても彼にとってそれを思い出すことは辛い事だろうというのは想像できた。


「現在のお父さんの勤務先や何かは、一切わからないのよね?」

「なんも知らん。住所も電話番号も勤務先も」

「いいわ。じゃ、名前は?」

「え?」

「お父さんの名前」


 なんと言う事か。自分の父親の名前がわからないという事に、ここで響は初めて気づいた。

 いや違う、知っていた筈だ、二十年前は。忘れてしまったのだ。

 響が呆然としたまま黙りこくってしまったのを見て、花音は「覚えてるわけないわよね、いいのよ」と話題を変える。

 成長期に一緒に過ごさないという事はこういう事なのだ。記憶の中のお父さんは『お父さん』という名前で覚えられている。その顔も、体型も、声も、全てその当時のままで記憶に保存されてしまうのだ。

 詩音はいたたまれなくなって、再び窓の外へと視線を移す。


「大体わかったわ。で、『よんよんまる』の事だけど――」

「無理やて。俺らはもうユニット解散せなあかん。あいつはなんぼでも俺をネタに強請ゆすって来る。親父がおる限り、俺はあいつから逃げられん」

「逃げなきゃいいのよ。なんで逃げる必要があるの?」

「なんかの度にいちいちこうして絡んで来んねんで? 詩音を巻き込むわけにはいかへんて」


 これにはさすがに詩音も二人を振りかえった。大股で戻ってくると、コーヒーカップを乱暴にテーブルに置いた。


「ちょっと待ってよ、僕の為に解散しようって言うの? だとしたら本末転倒甚だしいよ」

「詩音は世界レベルのピアニストやんか。俺はそこいらの地味な作曲家でしかないねん。俺の親父の為に詩音の名前に傷ついたらかなんわ」

「はぁ? 僕は『大路詩音』だよ? その程度で傷がつくような名前だと思わないで欲しいね」

「そういう事やのうて」

「そういう事だろ」


 詩音が珍しく響の言葉に被せてくる。彼の苛立ちはプリンススマイルでカバーできないところまで来てしまったらしい。響が驚くのにもかまわず、彼は言葉を継いだ。


「僕は『よんよんまる』を解散するくらいなら、ピアニストなんか辞めたってかまわないよ」

「無茶言いなや」

「響のいない『よんよんまる』なんか『よんよんまる』じゃないだろ。僕は『よんよんまる』として活動したいんだ」


 詩音の言っていることはメチャクチャだ……と、姉は溜息をつく。確かに響の言っていることの方がマトモではある。

 だが、詩音の言い分もわからなくはない。響がいるだけで、詩音の音は何倍も華やかになる事を花音は知っている。それを詩音は理屈ではなく感覚で理解しているのだろう。

 だからこそ、話は虚しく平行線をたどるのだ。


「ねえ響、僕たちの繋がりってその程度のものだったの?」

「ちゃうて。詩音は自分の置かれた立場を考えぇや。世界中の期待を背負った『ピアノ界の貴公子プリンス』やろ」

「響だって作曲界のウルフって呼ばれてるじゃないか」

「所詮一匹狼なんやって。野良犬と一緒や、王子様とちゃうねん」

「ここで解散したら、お父さんの思うつぼだよ。ますます図に乗るだろ」

「解散してしまえば、こっちに弱みはあらへん。親父が詩音にちょっかい出すこともあらへんやん」

「また僕かよ!」


 詩音が響の肩を掴んだ。花音はハッと息を呑むが、響は驚いた様子もなく哀し気に顔を上げるだけだ。


「僕に関係無くなっても、響にたかりに来るのが終わるわけじゃないだろ、根本的な解決にならないじゃないか」

「アホか。詩音の体は詩音一人のものちゃうねんで、世界の財産なんや。俺とはちゃうねん。自覚しぃや」

「響の体も響一人のものじゃないだろ!」

「いや、俺はその程度やって」

「お前いい加減にしろよ! 僕の存在は響にとってその程度だったのかよ!」

「んなわけないやん。そやのうて、詩音は特別なんやって」

「何が特別なんだよ! じゃあ、響にとっての特別ってなんだ? 僕にとっての特別は大神響なんだ!」

「もうやめて!」


 花音がテーブルを叩いた。


「冷静に話し合いましょ。あなたたちが怒鳴り合うなんて、あまりにも悲しいわ」

「ごめん」

「すまん」


 結局、その日に結論が出ることは無かった。

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