第32話 どのあたり

 詩音は苛立っていた。彼が苛立つのはよくある事だが、崩れることのないプリンススマイルによるカムフラージュで、人々は容易に欺かれている。

 唯一彼のスマイルを以てさえ騙せないのが、姉の花音である。マネージャーが有能すぎるのも、時として厄介ではある。いや、それは身内だからこその事なのかもしれないが。


「ちょっと落ち着きなさいよ。そんなにイライラしたところで、飛行機はワープできないのよ」

「イライラなんかしてないよ」

「はいはい」


 理由はわかっている。響のメールだ。パリを発つ前に響にメールを入れたところ、いきなり『よんよんまる』解散を仄めかされたのだ。

 今まさに軌道に乗って、これからというところで解散とはどういうことだ、これがイライラせずにいられるかというのだ。とにかく詩音としては一刻も早く東京に戻って響の話を聞きたいのだ。


「今どの辺かな」

「何が?」

「この飛行機」

「ストックホルム辺りじゃないかしら」

「日本は遠いね」


 さっきパリを発ってからさほど時間も経っていないのに、もうこんなことを言っている。姉はやれやれと苦笑いするしかない。


「ねえ詩音、成田まで十二時間ずっとこうして十分おきに訊く気じゃないでしょうね。この先は日本まで『ロシア上空』しか言えないわよ」

「わかってるよ」


 声は穏やかだが態度は隠せない。肘掛けに乗せた手が、落ち着きの無さを物語っている。


「大丈夫よ。響に何か問題が起きたのなら、私たちで解決すればいいんだから。そのためのユニットでしょう?」

「勿論だよ。今どこかな」

「ストックホルムの端っこ」


 花音は小さく肩をすくめると、「なんだよ、まだロシアじゃないのか」とブツブツ文句を言う弟を尻目にパソコンを取り出した。

 暫くカタカタと何かを打っていた花音が「詩音」と呟いた。


「何? まだストックホルムだよ。もうそろそろヘルシンキだと思いたいけど」

「ちょっとこれ見て」


 何やら姉の様子がおかしい。詩音は姉がこちらに向けたノートパソコンの画面を覗き込んだ。


「何……これ」


 青い太字ゴシックで書かれた見出しに彼の目は釘付けになった。そこにはこう書かれていたのだ。

『よんよんまる、早くも解散の危機?』


「ちょっ……本人が聞いてないんだけど?」

「マネージャーも聞いてないんだけど?」


 記事を読んでみると、作曲家・大神響が暴力沙汰を起こしたらしいことが書いてある。『よんよんまる』の作編曲を担当する大神が問題を起こしたとなると、ユニット存続も難しいのではないかという結論で締めくくられたその記事は、詩音と花音を大いに混乱させた。


「響はなんて?」

「パリを発つ前のメールが最後」


 周りの客に聞かれていないかと辺りを静かに盗み見ると、花音は更に声を落として囁いた。


「とにかく、こんなものはデマが多いのよ、響の口から直接話を聞くまではどんな話も信用しない事。適当な情報に踊らされちゃダメよ」

「花音、落ち着いてよ。今、花音の方が動揺してるよ」

「そうね。今どこかしら」

「だからまだヘルシンキも通ってないよ」

「そうだったわね」


 二人は沈黙した。



 成田に到着した二人を出迎えたのは大勢の記者とカメラのフラッシュだった。

 小声で「僕たちなんだか凄い有名人みたいだね」と軽口を叩く詩音に、「もともと有名人よ」とブスっとした花音が応じる。

 「とにかく全部僕に任せておいて」という詩音に全てを任せ、花音は無言を貫くことにした。


「大路さん、お帰りなさい」

「ありがとうございます。時差ボケでちょっと眠いです」


 花音は詩音の演技力に内心「大したもんだわ」と呆れながらも感心する。


「あのー『よんよんまる』解散の噂があるんですが、本当のところはどうなんですか?」

「やだなぁ、エイプリルフールは過ぎたばっかりですよ。次まで一年待っていただかないと」


 プリンススマイルで爽やかに笑い飛ばしつつも、歩みは止めない。さっさとここを通り過ぎる気のようだ。花音はマスコミとは一切目を合わせない。


「大神さんが傷害事件を起こしたと聞いていますが」

「僕は聞いてませんよ」

「大神さんから聞いたらどうなさいますか」

「どうって、聞いたら考えるけど、聞いてないですからね」


 笑顔が全くブレない。大した役者だ。


「もしも大神さんが解散を口にしたらどうなさいますか」

「え~っ、泣いてすがりますよ。僕を捨てるの? って」

「大神さんの家庭の事情はお聞きになってますか?」

「それは僕がそんな他人のプライベートに介入するような浅ましい人間に見えるという事ですか?」


 プリンススマイルを崩さずに吐かれた毒は、鋭利な刃物となって記者たちを斬りつける。彼を侮辱するという事は、彼のファン全てを敵に回すという事だ。こういうところで花音は弟の恐ろしさを再認識する。


「僕は一刻も早く響に会いたいんだ。もう十日も会っていないんですよ。みなさんも奥様や恋人に十日も会えなかったら恋しくて仕方がないでしょう? 僕にとって響は恋人みたいなものですから」


 一瞬青ざめた記者たちが、一様に胸を撫で下ろした。

 毒を吐いた後でさりげなく和やかな雰囲気に戻す、これが詩音のやり方なのだ。


「あちらでは大神さんと連絡を取り合われたんですか」

「それは勿論。僕たちそういう仲ですから」

「大神さんは実のお父さんを殴ったと聞いていますが」


 突然詩音が立ち止まった。


「誰から聞いたんですか。ソースを明示して貰えますかね」


 詩音は笑顔を崩すことなく、圧倒的な威圧感を纏ったまま記者に迫った。記者が無意識に後退る。


「いや、それは……」

「響に父親はいませんよ」


 彼はマスコミの方に軽く片手を上げると「それではみなさん、お疲れ様でした。僕も失礼します」と、有無を言わせない口調でその場を通り抜けた。

 花音は黙ってその後をついて行った。

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