第31話 流れ橋

 翌日、響は夕食のあとで母に切り出した。


「なあ、東京に引っ越さへんか?」

「え? 東京に?」


 突然の提案に母が戸惑うのも無理はない。もうここに二十年も住んでいる。生まれてこのかた関西から出たことのない人間だ、今から関東に行くなど、外国で暮らすようなものに感じるのかもしれない。


「今日一日考えて出した結論や。ここにおったらまたあいつが来る。二度も逃げることになってしまうけど、もう会うのは嫌やろ?」

「まあ、そうやけど」


 これを切り出すことだけでも、彼にとってはとても緊張感を強いられる行動だった。カラカラになってしまった喉を潤すために、響は淹れたばかりの安い粉のインスタントコーヒーを一口飲んだ。


「あのな、俺、向こうに戻って、二人で住む部屋を探しておくから。母さんの携帯も新しいの買おう。全部を新しくして、再出発しよう」

「そやけど、ここでお世話になった人たちもおるし」


 そう言うだろうという事は想定していた。響もここで大勢の人の世話になってここまで大きくなったのだ、恩が無いとは言えない。


「その人らに今度迷惑かかるかもしれん。親父が母さんの職場にえへんとも限らんやろ」

「それはあかんわ」

「母さんの知り合いみんなと離れなあかんようになるのはしんどいと思う。けど、親父が押し掛けて来るのとどっちがしんどいか、ゆっくりでかまへんからよう考えて」


 母は押し黙り、俯いてしまった。気持ちはわかる。それ以上響が言えることはない。


「明日東京に戻るから。それまでに決まらんかったら、後で連絡くれてもええし。とにかく、優しかった頃の『お父さん』は、もうおらんねや。それだけは忘れんと」

「そうやね」


 そう呟く母が小さく見えた。まだ『あの頃の』父が戻ってくると思っていたのだろうか。

 できる事なら自分も『お父さん』に会いたい。今の父ではなく、あの頃のお父さんに。だが、それももう望めそうにない。


「なあ、母さん」

「ん?」

「ナガレバシってあったよなぁ」


 母がハッとしたように顔を上げた。


「うん、あったね。木津川にかかっとる橋で、八幡と久御山を結んどって」

「ようお父さんと流れ橋に散歩に行ったの覚えとる。うちに近い方に葉っぱがいっぱい並んで生えとるとこがあった。黒いのん被せとる時もあった。あれは何かの畑やったんな」

「あれはお茶の畑なんよ。そう言えばあんた、あの頃から八ッ橋好きやったねぇ。しかも黒胡麻の。流れ橋と八ッ橋がごっちゃになって、『流れ橋食べたい』とか言うとったんよ」


 昔を懐かしむ母の目は、遠い景色を見ていた。それは響も同じだった。


「あの頃のお父さんしか、俺、よう思い出さんわ。昨日来た男は俺のお父さんと違う。知らん人や」


 敢えて冷たく言い放った。過去と、父と決別したかった。母は何も言わなかった。



 翌日、響は東京へ戻った。

 戻ってすぐに不動産屋を回った。場所は勿論、和泉多摩川だ。トランペットが吹ける川沿いは死守したかった。今の家から徒歩で引っ越しできるのも魅力だった。

 何より成城に行きやすいというのが外せない条件だった。詩音のいない生活など、今の響には考えられない。

 母から連絡が来ていない今は、まだあたりをつけるくらいしかできないが、それでも母が決断したら気持ちが揺れないうちに引っ越しをさせた方がいい。


 フランスの詩音から何件かメールも来ていた。大阪では「ちょっと実家がごたごたしている」とだけ返していたが、その状態から進展もない。


 詩音が戻ってくる日の前日、母から連絡が入った。すぐに引っ越しするというのだ。

 何があったのかさっぱり状況がつかめず、母に電話を入れると訳のわからない言葉が返って来た。


「週刊誌なんか見ぃひんよね」

「週刊誌?」

「今日ね、仕事行ったら、『これ響君ちゃうの?』って雑誌見せられて、それがね、響の事が書いてあって」

「うん」


 雑誌に載ることなど珍しくもなんともない。CMや新聞広告にも載っている。何がそんなに落ち着かないのか。


「その人が、本、お母さんにくれたんだけどね、お父さんかもしれんのよ」

「ちょっと落ち着いて、な?」

「響に暴行を受けたって」

「え、ちょっと、意味解らん」

「せやから、お父さんが響から暴行を受けたって書かれてるんよ。週刊誌に」


 傷害事件として訴えると言っていなかったか。どういうことだ。というか、何故そんなことが週刊誌に?


「それでね、お父さんが来たの。今後は『息子の大神響』やのうて『よんよんまるの大神響』を相手にするからって。週刊誌に話したらええ金になったって」


 まさか、父が週刊誌に売ったのか。息子を。


「それでね、それで、他の週刊誌の記者の人がうちにいっぱい来て、お母さん家から出られへんの。お買い物にも行かれへんし、仕事行きたくても記者の人がおって家出るとついて来はるし、職場の人に迷惑かけられへんよって」


 響は話を聞きながら体が震えるのを抑えられなかった。これがあの父のすることなのか。幼い響の手を引いて流れ橋を渡ったあの優しい父は、ここまで救いようのないクズに成り下がったのか。


「あんたの言う通りにしといたらよかった。さっさと引っ越したらよかったんや。ごめんね、お母さん、あんたの言う通りせんと、ホンマにごめんね」

「ええよ、わかった。大丈夫や、母さんはなんも悪いことないから。引っ越し屋と新しい家はこっちで手配するから、母さんは職場の人に事情を話して仕事辞めといてな。岩崎さんにも協力して貰ってな」

「ごめんね、響、ホンマにごめんね」


 電話の向こうで母が泣いている。俺の前で母を二度泣かせた、その事実が響には許せなかった。

 彼はすぐに家を決め、引っ越し業者を手配した。

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