第30話 父の記憶

 夜、響が寝室に並べた布団の中でぼんやりと天井を眺めていると、パジャマ姿の母が部屋に入って来て「電気消すよ」と言った。二十年間ずっと繰り返してきた、普段の流れだ。この後、布団の中でその日の事をぽつぽつと話し、そのうちにどちらかが「おやすみ」と言って寝る。それが幼い頃は響の学校の話やピアノの話であり、高校を出てからは母の職場の話であることが多かった。

 この日も例外ではなかった。最初に口を開いたのは母だった。


「あんな人やなかったんよ。あんた覚えてる? 昔の事」

「うん、まあ、少しだけ」

「昔はお父さん、優しかったんよ。ピアノコンペティションの時の写真、お父さんが撮ってくれたんよね」

「一緒に行ったっけ」

「嫌やわ、三人で行ったやないの、東京で三人して迷子になって」


 そうだ、父も母も東京など行った事が無かったのだ、その両親を東京という土地に連れて行ったのが当時五歳の響だったのだ。


「新婚旅行もね、贅沢せんと天橋立やったんよ、お金あらへんかったからね。だから東京なんて行くことないやろって思っとってねぇ。あんたがピアノ上手になって、まさか東京に連れて行かれるとは思うてへんやったからね。お母さん、鼻が高かったんよ」


 結婚式を挙げていないというのは聞いていた。母の両親に結婚を反対されていたという事も子供の頃に従姉妹から聞いて知っていたが、新婚旅行のことまでは知らなかった。

 つまり親に反対されていたのを押し切って結婚したから式を挙げておらず、親の援助も一切なかったため新婚旅行すら隣の京都に……いや、当時は京都に住んでいたのだから、同じ府内で済ませたという事か。


「あの時のお父さん、嬉しそうやったんよ。あんたの晴れ舞台や言うて、無理してお金工面して三人で東京行って。自慢の息子やて言うとったんよ」


 その父がなぜあんなことに。


「あんたがピアノコンペティションに出てすぐに、お父さんの会社が傾いてね、みんな次々リストラされてったんよ。早めに依願退職した人は少しでも退職金が出たんやけどね、お父さんは最後まで残っとったよって、いきなり雲隠れした社長の代わりに後処理する羽目になってしもてね。最後の給料も支払われんと、退職金も無し、その後仕事を探したんやけど、なかなか見つからへんくてね。やけになってお酒飲んどったんよ」


 学校から帰ってくると、居間で酒を飲んでいる父と出くわすことがあった。「何を飲んでるの?」と聞くと、必ず悲しげに笑って「ジュースやで」と言った。でも響はそれが酒であることは知っていた。


「お父さん、仕事見つからへんくてお金も稼がれへんのに、目の前にいるあんたはピアノがどんどん上手になって行ってみんなに天才やって言われてね、自分が惨めになったんやろね。あんたに非はないんよ。お父さんが勝手にあんたと自分を比べただけなんよ。せやけどお母さん、お父さんを上手い事フォローしてあげられへんかった。お母さんが悪いんよ」

「そんなことはあらへんて」

「お母さんね、お父さんに言うてしもてん。『仕事なくても三人で居てたらなんとかなる。三人で居てたら、迷子になっても大丈夫だったやん』って。そしたらお父さんがね、『俺は東京にすら連れてってやれんかった。五歳の子供にできることが俺にはできひんやった』って。新婚旅行のこと言ってるんやって気づいたけど、お母さん、何も言われへんかった。そんなつもりやなかったのにね。お母さんのせいなんよ」


 自分の存在が、父を変えたのか――響にとっては衝撃的な話だった。だが、確かに母の言う通り自分に非はない。息子と自分を比較して卑屈になった父の弱い心がそうさせたのだ。増して母が何をしたというのか。母が責任を感じることなど一つもないのだ。


「それは母さんのせいと違う。親父が弱かっただけや」

「うん、そうやね。今はそう思えるようになった。けどね、あの頃はそうは思われへんかったんよ。毎日『お前のせいや』『お前が悪いんや』って言われ続けて、お母さんも『あ、そうなんや、私が悪いんや』って本気で思うとった。洗脳やね。エスカレートして暴力振るわれても、お母さん自分が悪いんやって本気で思うとったから。だけどね、あんたのおかげで目ぇが覚めたんよ」


 この上自分が何をしたというのか。響は次の言葉を待った。


「あんたがお父さんとお母さんの間に立って、『お母さんを苛めんといて』って言ってくれたでしょ」


 何度となく夢で見たあのシーンだ、その後俺は殴られる……言葉には出さなかったが、その映像はこの薄暗い部屋で目の前にリアルに展開された。


「あの時お父さん、初めてあんたに手ぇ挙げたんよね。それでお母さん、目が覚めたの。このままやったらあかんって」


 ――初めて? 俺に手を挙げたから、母さんは親父から離れる決心をしたのか?


「喋っとったら明日起きられへんね。ごめんね、おやすみ」

「ああ、おやすみ」


 そう言いながら、響はああなってしまう前の父を思い出していた。

 響がピアノコンペティションで優勝したらピアノを買ってくれると約束したこと。

 一緒に伏見稲荷の赤い鳥居をくぐったこと。清水寺に連れて行ってくれたこと。

 あれはどこだろう、欄干の無い橋でよく遊んだ。近所の橋だった。欄干がないから子供は下を覗きたくなる。危ないからと父はいつも手を繋いで渡って……あ、そうだ、ナガレバシだ、ナガレバシと言っていた。それが正式名称とは思えないが、そう呼んでいた。


 記憶の中の父はいつも笑っていた。笑っていなかったのは、自分が殴られたあの日だけだ。それ以外の記憶が飛んでいるのか、それとも単に見ていなかったのか。

 自分の中に強烈に残るあの血まみれの白い歯。小さな石ころのようなそれは、幼い響の心に深い傷を残した。あれからどうしたのだろう。あの歯を拾っただろうか。母が電話をして、自分が途中で話を代わって、そこまでで記憶が途切れている。

 次に覚えているのは、母に抱きつこうとしたら看護師さんに止められたことだ。「お母さんはここの骨が折れてはるから、今は抱きついたらあかんよ」と、胸のあたりを指さして言われたのだ。それはとてもとても痛いのだと、子供心に思った。


 自分は男の子やからしっかりせなあかん、そう思ってから母に甘えるのを辞めたのだ。

 なんでも自分でできるようになって、母の手伝いをしよう、料理も裁縫も買い物も……俺がなんでも母さんの代わりにしたるから、俺が母さん守ったるから……せやから母さん、泣かんといて……。


 響は眠りに落ちた。

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