血の繋がった他人

第29話 再訪

 詩音がフランスへ発って数日後の夜、アパートのドアがドンドンと叩かれた。呼び鈴があるのにそれを使わずにドアを直接叩く、その悪意に満ちた音に驚いた母が、ビクッと体を硬直させ、お茶がこぼれる。

 この明らかな母の怯えは間違いなく父だ……響はそう確信した。


「はい、今出ます」


 気丈に立ち上がる母を「あかん、俺が出る」と響が押し戻す。オロオロする母を座らせ、「どなたですか」とドア越しに声を張ると、先日聞いたばかりの声が聞こえてきた。


「俺や。お父ちゃんやで、開けてんか」


 誰がお父ちゃんなものか。どの面下げてそのセリフを吐いたのだろうか。


「うちに父親はおらん」

「そう言いなや。ここやと話もできひんやろ。開けえや」

「何の用や。そこで言え」


 ドアを開けない響にしびれを切らしたのか、外の声に苛立ちが混じる。


「何の用事か、ここで言うてええのんか。ご近所中に聞こえてまうで」


 脅迫か。『お父ちゃん』と名乗ったその口で脅迫とは恐れ入る。


「響、開けた方がええのんと違う?」と小声で訊く母を「静かに」と制し、ドアに向かって侮蔑の色を乗せた声で返答を投げつける。


「かまへん。ご近所に聞いて貰えや」

「ほんならここで言うで。こないだのお前の行動、覚えとるわな。傷害事件として被害届を出そうか思てんねんやけどな」


 ドアが開いた。響が開けたのだ。


「話の分かる息子やな」


 ニヤニヤと笑う父を中に入れると、彼は勝手に靴を脱いで上がり込んだ。

 あからさまに怯える母に一瞥をくれ、彼は「よぉ、元気そうやな」と声をかける。


「医者に行ってなぁ、診断書取ってきたんや。それ持って警察に被害届でも出すかなと思ってな」


 響が無言で上から睨みつける。父は全く動じることなく、厭味な笑いを顔にへばりつかせている。


「せやけど、一応血ぃ分けた息子やしな、示談でもええかなってな」

「あんたの血なんぞ、一滴も混じってへんと思いたいわ」

「まあそう言いなや」


 父は胡坐をかくと、母に「ビール無いんか?」と訊いた。母が何かを言おうとするところへ、響が「そんなに長い事話すつもりはあらへん」と被せる。

 チッと舌打ちをした父がおもむろにタバコに火を点ける。が、すぐに「うちは灰皿ないねん。外で吸うてくれ」と響が取り上げる。

 一筋縄ではいかない響に多少の苛立ちを覚えつつも、無理に笑顔を作った父は居丈高に話し始める。


「こないだ素直に治療費払っといたら良かったんやで。こうやって引っ張りよるから慰謝料請求せなあかんようになるんや。まあ、俺も鬼やないし、お前らも家族やからな」

「今さら家族面すんなや」

「家族やないかい」

「用が無いなら帰れ」

「なんや、また殴るんか? ええで? ほれ、どうした?」


 父が煽って来るのを、響は心底侮蔑の目で見下ろした。自分の父はここまで見事なクズになったのか。


「どないすんねん。示談でええか? 被害届出すか? ここで断ったら次は裁判所で会う事になるで?」

「上等や。この程度で傷害事件にできるんやったらしてみいや。あんたが母さんにしたこととどっちが問題かはっきりさしたる」


 響の強がりは一笑に付された。彼自身こういう方面に疎いことが、父に見抜かれてしまっている。


「二十年前の証拠があるんかい。こういうのんは証拠がモノを言うんやで」

「証拠なら……あります」


 響の後ろから母が反論する。だが、それすらバカにしたように笑い飛ばされる。


「ほぉ、どこにあるんや?」

「当時の病院に行けばカルテが残ってるやないですか」

「アホも休み休み言わんかい。普通は五年くらいしかとっとかへんもんや。時効の期間も考えて長めにカルテを保存しとるところかて、ええとこ十年やで」


 明らかに訴訟関連に弱そうな響を上から見下すようにニヤつきながら、彼はとどめを刺しに来た。


「ええか、こっちは取ったばっかしの診断書があるんやで。どないすんねん」


 響は母を後ろへ追いやり、精一杯の虚勢を張った。


「好きにしたったらええわ。あんたの帰る家はここやない」

「さよか。今日、俺を追い返したこと、後悔さしたるからな」


 オドオドする母と、目を泳がせる響を残し、父は部屋を後にした。

 それから二分としないうちにドアを叩く音と「大神さん!」と呼ぶ声が聞こえた。お隣の岩崎さんの声だ。響は急いでドアを開けた。


「はい」

「ああ、響君、居てはったんやね。良かった。今すぐそこでお父さんとすれ違ったもんやから心配になって。なんもされてへんか?」


 どれだけ急いで来てくれたのか、はぁはぁと肩で息をしている。カルチャーセンターで美術の講師をしているという岩崎さんは、痩せていて見るからに運動が苦手そうな雰囲気を醸し出している。

 響は岩崎さんに相談に乗って貰おうと、彼を部屋に招き入れた。


「これから父の事はどうにかして決着をつけよ思うてます。それまでは、ちょこちょこ戻ってくるようにしますけど、俺のおらん時は母の事よろしくお願いします」

「勿論そのつもりやけど、どうやって決着つけるつもりなんや?」


 母が出した文字通りの粗茶に口をつけつつ、岩崎さんはご尤もな質問を投げかけた。 


「まだ考えてないんです。何から手を付けたらええのんか」

「警察には相談しはったんですか?」

「一応」

「なんて?」


 岩崎さんに絶対の信頼を置いている響は、先日警察に行って話した内容を包み隠さず話した。岩崎さんは眉根を寄せながらその話を聞いていたが、響が一通り話し終わると難しい顔のまま静かに頷いた。


「大神さん、よう頑張らはったね。こんなしっかりもんのお母さんやったから、響君もええ子に育ったんやね」


 彼のねぎらいの言葉に、母の膝の上で組んだ手に涙が落ちる。


「そうか、保護命令言うもんがあるんか。まあ、それも大事やけど、大神さん、離婚はしはらへんのですか?」

「離婚なんかあの人がしてくれるわけがないやないですか。この子が今稼いできてくれるんをハイエナかハゲタカみたいに待ってるんですよ」

「せやけど、養育義務も放棄してはったわけですし、離婚できるんちゃいますかね。離婚裁判して慰謝料取った方がええのんちゃいますか」


 そこで響も割り込む。


「離婚裁判って費用どれくらいかかるんですか? 弁護士さんとか頼まなあかんのですよね?」

「いやぁ、私は門外漢ですよって、ようわからへんのですけど……でも、裁判はお金の問題より精神的にエラい参ってまうって聞きますよって、大神さんのメンタルの方が心配ですわ」


 そんなものなのだろうか。裁判所にすら入ったことのない響と母には想像もつかない世界の話だった。


「あの……」


 岩崎さんが何か言いにくそうに、目を泳がせながら呟いた。


「実は、大神さんに言うてへんかったことがあるんですわ」

「はい?」

「実は僕、息子がるんです。今年三十になります。妻は死別でして」

「え……そうだったんですか。てっきり、ずっとお一人なのかと思うてました」


 しかし、何故今その話をする必要があるのだろうか。響は続きを待った。


「その息子が東京で弁護士をやっとるんですわ。僕は美術の事しかわからへんし、法律の事はさっぱりで相談に乗ることはできひんのやけど、うちの息子に聞いたらわかることもあると思うんですわ」


 なんと心強い隣人であろうか。二人はこの出会いを神に感謝した。

 

「ほな、長居してしもてすんません。そろそろ僕は戻りますわ。なんかあったらいつでも声かけてください」

「あ、いえ、俺の方こそお引き留めしてすいません。いろいろありがとうございます。ホンマに助かります。母の事、よろしくお願いします」


 岩崎さんが部屋を出るのを見送り、その場にへなへなとへたり込んでしまった母に、響は「大丈夫や」と根拠のない保証を口にすることしかできなかった。

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