第28話 ミニコンサート

 翌日、響は高槻の実家から直接樟葉の会場へと向かった。詩音が早めに来て動きの確認をしたいというので、予定の二時間前に現地入りした。

 この日は樟葉にある楽器屋さんがショッピングモールのイベントスペースを使って展示会をするらしく、その余興として『よんよんまる』のミニコンサートがプログラムされている。

 会場には詩音が先に到着しており、イベント責任者である楽器屋の店長さんと何やら調整しているところだった。


 響は挨拶もそこそこにスケジュールを確認した。午後二時、お昼ご飯を食べ終わってちょっとウィンドウショッピングを楽しんだころに開始されるようだ。

 ステージの周りには所狭しとグランドやアップライト、電子ピアノなども並べられている。目の前で聴けるお客さんは僅か三十人ほどしかいないと思われたが、このイベントスペースが屋上階まで繋がる巨大な吹き抜けとなっているため、どの階からでも眺めることができるようになっているのだ。寧ろ目の前よりは二階の吹き抜けから覗いた方が彼らの手の動きが見えて面白いと踏んだのか、ピアノの鍵盤真上は既に二階も三階も場所取りしている人がいる。

 立体的に音を飛ばすことを考え、本番で使うグランドピアノの屋根が外されると、吹き抜けの上の方からざわめきが起こる。そこに調律師が入って来て、ジワジワと本番前の緊張感のようなものがステージ周りを埋めて行く。

 彼らは責任者と流れの確認をした後、二人の動きをもう一度復習した。こんなところで正面衝突して抱き合っていたのでは、いいネタにされてしまう。それはそれで話題作りになるのかもしれないが、小さい規模とは言え折角のコンサートなのだ、完璧なものを見せたいという気持ちはある。


 とりあえず一通りの流れと動きが決まったところで、昼食をとろうという事になった。腹が減っては戦ができないのは、今も昔も変わりない。

 勿論ここにもレストラン街はある。だが二人は行く先々で目立ってしまうので、仕切りで半個室状態になる和食屋さんに行こうと響が提案した。


「流石、地元民だね。高槻からは川の向かいなのになんでこんなとこ知ってるの? ここって電車で来るにはかなり迂回しないと来られない感じだけど」

「ああ、枚方公園に住んでるいとこがここでバイトしとったからよう来とった」


 半個室と言えど、衝立ついたてがある程度だ、やはり周りの客の「あれって『よんよんまる』じゃない?」という声が耳に入って来る。有名になるという事はプライバシーが無くなるという事なのだ。


「一昨日、急に大阪に戻っちゃったから心配したよ。その前の日、お母さんから電話があったから何かあったのかなって。どうしたの?」


 聞かれるとは思っていたが、どう答えたらいいかわからず、響は「なんでもないねん」と言葉を濁す。

 なんでもないわけがない。それなら何故すぐに戻らなかったのか。動きの確認もしていなかったのに。

 だが、響がこれ以上言おうとしないのだ、詩音がしつこく聞くのも躊躇われた。


「何でもないならいいんだけど、困ったことがあったら何でも相談して。僕たちはユニットなんだからさ」

「ああ、そやな。ありがとう」


 とはいうものの、やはり響は何か隠している。それもわざわざ隠すようなことだ、只事では済まないような話だというのは容易に想像がつく。

 詩音は不安を抱えたまま、そして響もまた悩みを抱えたまま本番を迎えた。


 コンサート自体は大成功だった。

 曲目はオッフェンバックの『天国と地獄』やハチャトゥリアンの『剣の舞』といったアップテンポのものを主軸に、チャイコフスキーの『花のワルツ』などのゴージャスなものも組み込んで、誰もが知っている曲で固めた。

 そして相も変わらず司会者をタジタジにさせるほどの軽妙なトークで詩音が会場を沸かせ、演奏では驚くほどのクオリティで曲を聴かせながらも、アクロバティックな演出で観客を酔わせた。「今日だけで千人のファンを作ったね」などと詩音が軽口を叩くほどの盛況だった。


 なんとか無事にコンサートを終え、帰る段階になって響は「詩音が日本に戻るまで大阪に残る」と言い出した。詩音は二日後から十日間フランスへ発つことになっていたのだ。詩音としては自分がフランスにいるのだから響が大阪に残っても特に問題は無いのだが、何しろいろいろ気になって仕方がなかった。

 後ろ髪を引かれる思いで、詩音は響を残し、一人東京に戻った。


 響の母は喜んだ。今日は樟葉からそのまま東京へ戻る事になっていたのに、樟葉のコンサート会場から「今日は高槻に戻るわ」とメールが入り、ホッと胸を撫で下ろしていたのだ。


「どうしたん、急に」

「詩音が明後日からフランスに行くらしいねん。十日間やて。せやし、もう少し俺ここに居とこうか思って」

「良かった。あんたがいてくれたらお母さん安心やわ」


 母はこんなに弱気な人だっただろうか。響の記憶の中の母はいつだって気丈だった。「お母さんが居てるから大丈夫やで」「お母さんに任しときなさい」といつも言っていた。この人さえいれば、自分は安心できたはずだ。

 知らぬ間に立場が逆転していることに響は愕然とした。これからは俺が母さんを守ったらなあかん、そう思わずにいられない何かが、今の彼女にあった。

 年齢がそうさせているだけではない。きっと父のことがある。俺のおらん間にあいつが来ることを恐れてるんや……と響は確信していた。

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