第27話 生活安全課
雑然としたフロアの一角にある窓際のソファに案内された二人は、
周りを見渡すと、彼女のようにスーツの人もいれば事務員のような服の人もいる。『如何にも』な警察官の恰好をした人もいる。
「つまりお母様はご主人の日常的な暴力から逃げるために、二十年前に当時小学一年生のお子さんを連れて家を出たという事でよろしいですね」
「はい」
「では息子さんは現在二十六歳?」
母は首を横に振る。
「二十五です。正確には十九年前に家を出たんです」
「十九年前ですね。当時はどのような暴力を? 思い出すのはしんどいとは思うけど、それ書かへんとね、何も助けて上げられへんから、お母さん頑張って思い出してね。あ、お茶もどうぞ」
やや恰幅の良い体をパンツスーツで包み、あまり似合っていないショートボブにワインレッドの眼鏡。
本当にこの人は警察官なのだろうか。どことなくちぐはぐな感じが二人を安心させた。
「優しい人やったんです。この子が小学校に上がるまでは。その頃ちょうど主人の会社が倒産して、無職になったんです。それから毎日職探しをして。それでもなかなか仕事が見つからへんくって、私もこの子が学校に行っている間のわずかな時間、パートに出たりして凌いでたんですけど。それが主人のプライドを傷つけたようで」
母の言葉が止まる。響は目だけで彼女を盗み見る。三觜は何も言わず、母の言葉を待っている。
「俺を役立たずやと思うとるんやろって。そんなこと一度だって言うたこと無いんです、思ったことも無い。でもあの人は私が心の中であの人を責めていると感じていて、これっぽっちも思っていない私にそれをぶつけて来て」
「被害妄想やね」
真っ直ぐ母を見て静かに言う三觜に、母は縋るように言葉を継いでいく。
「それがだんだん私への攻撃的な言葉に変わって行って、毎日『お前のせいや』って言われて、なんでもかんでも私のせいにされて、そのうちに私も全部自分のせいなんやって思うようになってしまって、それでいつも謝ってたんです、私のせいや、ごめんなさいって。せやけどあの人は私を許してくれへんかった、毎日殴られて、蹴られて、灰皿投げつけられて、どんどんエスカレートして行って、私はなんとかして響を守らなあかん思って」
母が呼吸をするのも忘れたかのように話しているのを、響は呆然と見ていた。
全て初めて聞く話だった。それはそうだろう、こんな話をわざわざ息子に話すわけがないのだ。今までこんな辛い思いをして、それを自分の胸の中にしまい込んでいたのかと思うと、響はいたたまれなかった。自分はずっと何も知らずに母に守られていたのだ。
「お母さん大丈夫? しんどかったら休みながらでええんよ」
「あの……俺、子供やったからよう覚えてへんのやけど、一つ鮮明に覚えてるんです。父に『お母さんを苛めんといて』って言って、それで俺も殴られたんです。転んだ時、目の前に母の歯が落ちとった」
母が小刻みに震え出した。当時を思い出してしまったのだろう。響は母の小さな肩を抱き寄せて落ち着かせようとする。
「前歯が折れるほど殴られたという事やね」
「それだけやない、その後すぐ父が出て行って、病院行ったら肋骨が折れてる言うて」
「その時の診断書は?」
「診断書は取ってないんです。とにかく逃げるのに必死で。あの人、別人のようになってしまったんです。昼間から酒を飲んで私に当たり散らして、少し落ち着くとフラッと出て行ってはなけなしのお金を全部すって来て。淀に行ってたと思うんです」
「淀? ああ、競馬ね」
「そうです。遊ぶお金に困るとパートで稼いだ生活費にも手を出す始末で、私がそれを咎めると暴力が始まるもんやから、もう何も言われへんままお金渡して。とにかく早よう逃げ出したかったんです」
「それでお子さん連れて逃げたのね」
「そうです」
あの気丈な母が目に涙を溜めている。響が母の涙を見るのは初めてだったかもしれない。
「お母さん、ほんまによう頑張らはったんね。息子さん、こんなに立派に成長しはって、お母さんの頑張りの賜物やね」
三觜の言葉に母は号泣してしまい、何も話せなくなってしまった。仕方なく響は、続きは自分が話すという意思表示を見せる。
「それで、二十年も経って今頃になってここへ相談に来たのはどういう訳やろね?」
「父に家を見つけられてしまったんです。『よんよんまる』のゲリラコンサートで、俺の通った学校とか家電屋さんとか回ったから、高槻に住んでいることがバレてしまって」
よんよんまる?……と首を傾げていた三觜は、不意に「あっ」と言って身を乗り出した。
「どこかで見たことがあると思ったら、よんよんまるの大神響君!」
「それです」
「なるほどわかったわ。お母さんと響君が家を出て、お父さん生活ギリギリで遊ぶお金に困ってたんやね。それが今頃になって響君が活躍し始めたもんやから、ちょうどいい金蔓とばかりに『やり直そう』とか言うて来たんやね、違う?」
流石、プロは話が早い。響は静かに頷いた。
「ほな、どうしたらええの? どうしたいの?」
「二度と会いたくないんです。顔も見たくないし、近くに来られたくない。俺は今、東京に住んでるんで、母が一人でいるときに父が来るのは避けたいんです」
三觜は暫く考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「保護命令って言うのがあるんやけど、知ってる?」
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