第26話 見知らぬ男

「ただいま」


 玄関を開けると、そこには男の靴が脱ぎ散らかしてあった。

 男? 男を連れ込むような母ではない。では何なのか。


「母さん?」


 部屋に入ると、知らない男が立っていた。母が驚いたように「響」と顔を上げる。


「響だと?」


 見知らぬ男はゆっくりと響を振り返り、ニヤリと笑った。


「よぉ、久しぶりやな、響」

「どちら様ですか?」

「なんや、冷たいな。忘れたんか」


 忘れるも何も、こんな男は知らない。

 薄汚れた作業着のようなものを着たその男は、自分よりは小さいものの詩音よりも身長があり、それでいて詩音よりははるかに肉付きが良かった。かと言って肥満な訳では無く、年齢の割には適度に筋肉のついた体をしているように思われた。服装からも頭脳労働者ではない事が容易に見て取れる。

 そんな男が、一体母に何の用事だというのか。まして自分を知っているというのはどういうことなのか。


「母に何の用ですか。用件が済んだらお引き取りください」

「おいおいおい、酷でえな、それが親父に向かって言う言葉か?」


 響は硬直した。今何と言った? 『親父』と言わなかったか?


「すっかり一人前になりやがって」と笑う男に、母が「もう帰ってください。響に用はない筈です」と言い放つ。だがその声も態度も、やっと絞り出したようなものだ。


「せやから、響やのうてお前に用があるんやんか」


 母の顔が恐怖に歪む。それを見た男はこれでもかと眉尻を下げ、取ってつけたような笑顔で母の方に顔を寄せて行く。


「お前には苦労かけたし、より戻そうか思ってな。今まで一人で響を育てて、大変やったやろ。ホンマに堪忍な。けどな、俺も定職に就いてそれなりに稼ぎもある。せやから、これからはお前に苦労かけんと、俺が養ったるさかい」

「見え透いた嘘はやめてください。とにかくもう来んといて」


 近寄っていく男から逃げるように、母が後退る。わずかに語尾が震えてはいるものの、それでも毅然として向き合う母に「夫婦やんか」と更に男が猫なで声を出す。その声に響は猛烈な苛立ちを覚えた。


「今さら夫婦面すんなや。俺には親父なんかおらん」

「なんやなんや、二十年ぶりや言うのに、そないなこと言うなや」

「今まで放っといたくせに何言うとんねん」

「ちゃうて、お前らがどこにおるかわかれへんやったから、迎えに来られへんかったんやがな。ようやっと見つけたよって、迎えに来てやったんやで」

「響、この人はあんたの稼ぎを見てたかりに来てるだけや、騙されたらあかんよ」

「やかましわ、お前は黙っとかんかい!」


 いきなりその男は母の髪を掴んで引き倒した。

 その瞬間、響の脳裏に過去の記憶が鮮明に蘇った。


 母の顔を殴り、髪を引っ張って立たせてまた殴る。倒れた母の口の端から血が滲んでいる。どんな悪いことをしたというのだろう、「ごめんなさい」と謝り続ける母を父は容赦なく何度も殴り、腹に蹴りを入れる。


「あかん、お父さんもうやめて、お母さんを苛めんといて」


 父を止めに入って自分も殴り飛ばされる。

 目の前に、血のついた白い小さな石のような塊。ふと母を見ると、口の周りが血で染まり、前歯が無くなっていることに気付く。これは母の前歯か。


「あかん、お母さん死んでまう、お父さんやめて」

「この程度で死ぬなら、死んだらええんや」


 父は母に一瞥をくれて黙って出て行ってしまう。それを見た母が電話をかけている。


「もしもし……」


 それだけ言って倒れた母。電話からは何か話す声が聞こえてくる。


「火事ですか、救急ですか? どうされましたか? もしもし? 大丈夫ですか?」


 電話を拾い上げると、響は話し始める。


「あのな、お母さん、お口から血ぃ出とる。歯ぁも取れてん。お母さん痛そうやねん。お父さんお外に行って、おらんようになった」


 その後どうしただろうか。母は、父は……自分は?

 確かに今、目の前にいるのは父だ。あのとき母さんをいた父だ。


「お前は昔っから要らんことばっか言いよって。女は黙っとれ」

「やめて」


 髪を掴んで引きずられる母が悲鳴を上げるのを見て、響は自分の中で何かのスイッチが入るのを感じた。

 ヤバい、と思った時にはすでに遅かった。ほぼ反射的に父を殴っていた。ボサボサになってしまった髪の毛もそのままに、母が「あかん!」と響に縋りつく。

 右手がジンジンする。人を殴ったのは初めてだ。そうか、人を殴るというのはこういう事なのか……と、ぼんやり考える。


「おい響、わかっとるんやろな。これは傷害事件やで。暴力沙汰は都合悪いんと違うか。なんやったかな『よんよんまる』言うたかな? プリンスの相方が暴力事件ちゅーんは問題あるんとちゃうか?」

「息子相手に脅迫か。本性出しよったな」


 父は右側だけ口角を上げて笑うと「そうムキにならんてええがな」と言って続ける。


「今なら穏便に済ませたってもええねんで。示談ちゅーやつやな」


 響が「この野郎」と言いかけた時、ドアをどんどん叩く音が聞こえた。母が急いで玄関に出ると、お隣りの岩崎さんが中を覗き込むように大声で言った。


「大神さん、大丈夫ですか。なんや大きい物音が聞こえて心配になってきたんですけど。どうしたんです、その頭は。警察呼びますか?」


 父が「あーいやいや、なんでもありませんよ」と笑顔で出て行く。何故この状況で笑顔が作れるのだろう。


「すいませんねえ、俺はこの女の亭主なんですよ。ただの夫婦喧嘩ですわ、気にせんといてください。ほな、俺は今日はもう戻るわ」


 素知らぬ顔で父は岩崎さんの横を通り抜けて出て行った。岩崎さんは父が見えなくなるまで玄関で立っていてくれた。


「響君帰ってはったんやね。一人か思って慌てて飛んできてしもて」


 照れ笑いする岩崎さんに「いえ、助かりました」と響が頭を下げる。岩崎さんは響が高校に上がった年に隣に越してきた人で、あと数年で還暦を迎えようかという人だ。母よりは七つほど年上だろうか、彼は家族を持たずにずっと一人で生活していることもあり、ここに越してきてからずっとお隣同士で助け合っている。


「どうしはったんです? あれ、本当に大神さんの旦那さん?」


 もぞもぞと返事を躊躇する母に、「俺のおらん時に来たらかなんし、岩崎さんに言うといた方がええ」と響が促す。渋々母がかいつまんで事情を話すと、岩崎さんはだんだん表情が険しくなっていった。


「離婚したはらへんやったんですか。せやから響でバレてしもたんやな」

「もうあの人には金輪際関わり合いたくないんです。一体どうやってこの家を見つけたんだか」


 それもそうだ。今まで二十年間全く連絡すらしてこなかった。『大神響』の名だけで、二人の住んでいるところなど絶対に知られる筈がない。


「そりゃ、あれや。少し前に『よんよんまる』でヤスダ電機とか学校とか回らはったから、この辺に住んどるってわかったんちゃうかな。小中学校がわかればかなり絞られるよって」


 まさか、あのゲリラコンサートで。自分を育ててくれた高槻の人達に感謝したかっただけなのに、それが母を追い詰めることになろうとは。


「明日警察に相談してみます。岩崎さん、すんませんけど俺が居らん時、母の事よろしくお願いします」

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