第25話 電話

 それから何日か、響は譜面を調整しながら詩音の家に通った。

 作曲はいくらでも一人でできるのだが、流石にポジショニングの確認は一人ではできない。それにいくら自分より十センチ近く小さいとはいえ、詩音もかなり背の高い方である。大柄な男が二人でちょこまかと移動しながら八十八鍵を制御するのだから、慎重に作り込んで行かないとまた怪我をすることになる。


 そして、二人で練習するのはことほか楽しかった。こんなにふざけ合いながらピアノを弾くなどという事は、二人の今までの人生には存在しない練習法だった。

 ポジションの入れ替えをミスすると頭突きか体当たりをする羽目になり、その度に抱き合う二人に花音は「腐女子が喜ぶ写真撮っておこうか?」などと言っている。詩音は面白がって、響がミスすると「コチョコチョの刑」と言っては彼の脇腹を攻撃し、詩音がやらかすと響が同じように反撃する。まるで図体のデカい小学生のじゃれ合いだ。


 そんなことをしている間にショッピングモールから『よんよんまる』のゲスト出演の打診が来た。先日のゲリラコンサートが功を奏したらしく、響の実家のある高槻から淀川を挟んで反対側、樟葉の駅に直結した大型ショッピングモールの広場でミニコンサートの予定があるらしい。そこに出演するアーティストとして、『よんよんまる』に白羽の矢が立ったのだ。

 樟葉なら響は何度も行っている。従姉妹がすぐ近くの枚方公園に住んでいて、何度か付き合わされたからだ。

 それなら樟葉でミニコンサートをこなしてついでに京都の方まで観光に行こうかという事になった。三月中旬と言えば、気の早い桜はもう咲いている。醍醐寺の河津桜かわつざくらが満開になっているだろう。東山花灯路も回れるかもしれない。


 『よんよんまる』の構成を考えれば考えるほど、二人で連弾を楽しむ時間が増える。必然的に響は『よんよんまる』用の作編曲に力が入る。それに応えるように花音も彼らのプロモーションに力を入れた。

 そして当然の成り行きながら、『よんよんまる』としての結成コンサートの話になる。どうせならクリスマスにブチ当てて若い年齢層の動員に期待しようという事になり、それに向けての二人の売り込み方を練る事になった。

 どうせ魅せるユニットとして売り込むなら見た目も重視しようという事で、アニメやゲームの曲をやる時はコスプレや被り物も積極的に取り入れてプロモーションビデオを作った。


 この作戦は大当たりだった。プリンスの名をほしいままにしている上品で爽やかな詩音と、一匹狼の雰囲気を漂わせる無口でクールな響が、ゲームキャラのコスプレで楽し気にピアノを連弾しているのだ。ギャップ萌えにやられた女性たちを虜にするのに、全く時間を必要としなかった。

 彼らはひたすらピアノを弾き、花音はそれを動画サイトに上げて行く。そして新たな仕事が入る。

 彼らの楽しい時間はクリスマスのファーストコンサートに向けて続いて行くはずだった。



 樟葉でのミニコンサートを直前に控えたある日、成城の詩音の自宅で打ち合わせをしていると、響のスマホが電話の着信を知らせた。出るのが間に合わなかった響は発信者の名前を見て「あれ?」と首を傾げた。母からだった。


「切れちゃった?」

「うん。母やった」

「かけ直してあげなよ。急ぎの用事かもしれないよ」

「そうするわ、すまんな」


 響がかけ直すのを見て、「飲み物取って来るね」と詩音が席を外す。

 コーヒーを淹れて戻って来た詩音は、響の通話が終わっているのを確認すると部屋に入って来た。


「つながった?」

「うん、せやけど、なんや要領を得ん言うか。なんでもない言うねん。なんでもなかったら電話かけへんやろがって思うねんけどな」

「夜もう一度かけてみたら?」

「そやな」


 響は何か嫌な感じがしていた。わざわざ電話をかけておいて何でもないとはどういうことだ? 何か隠しているんじゃないか。

 そう思った響は、翌日大阪へ向かった。直接話した方が早そうだと踏んだのだ。何か問題が起こっているなら、そのまま数日実家に泊まり、ぶっつけで樟葉に行って詩音と落ち合っても多分なんとかなる。そう思った響は、数日分の着替えとパソコンを持参で実家に戻った。

 母がサンドイッチ工場から帰ってくるのはいつも夜の七時過ぎ、八時頃に着くようにすればいいかと計算して電車に乗る。

 駅前の百貨店のデパ地下で何か美味しいものを買って行こうか、確か夜八時まで営業していた筈だ、などとぼんやり考えながら新幹線の車窓から流れる景色を眺める。


 そうだ、母の好きな『豚まん』を買って行こう、と思った瞬間、詩音の苦笑いを思い出した。詩音には『豚まん』が通じなかったのだ。関東人は『肉まん』というらしい。今まで自分の常識だと思って生きて来たことが、悉く常識ではなかったことに気付かされたのだ。

 そういえば『みかさ』も通じなかった。あれは『どら焼き』というのが一般名らしい。三笠山に形が似ていることから『みかさ』と呼ばれていたのだという事を、つい最近知ったばかりだ。確かに三笠山は奈良県、阿倍仲麻呂の歌にも出てくる。関東では馴染みが薄いのかもしれない。


 そんなことをとめどなく考えているうちにぐっすり眠ってしまい、気付いた時には京都駅に到着するところだった。

 時刻は七時を少し回ったところ、ちょうど母が家に帰った頃だ。彼は小さなスーツケースをゴロゴロと引きながら、電車を乗り換えた。

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