第23話 スープ
翌日、花音は響からの返信を待たずに前日の忘れ物を届けに行った。電話にも出ない、メールは帰ってこない、これは何かがおかしいと花音のアンテナが反応していたのだ。
案の定、どうやら疲れが溜まって熱を出していたらしく、出迎えてくれた彼はスウェットの上下を着て、今まで寝ていたかのようにぼんやりした様子だった。
寝ていれば治るなどと言っている男が病院に行くとも思えず、ましてご飯も食べることはないだろうと思った花音は、詩音に連絡して暫く響の側についていることにした。
それから彼女は、めんどくさがる響を問答無用で病院へ連れて行き、戻ってからは彼を寝かせて卵粥を作った。
冷却ジェルシートを貼ってやり、薬を飲ませ、詩音が熱を出したときにいつもそうするように、蒸しタオルで体を拭いてやった。
彼の体を拭いてやりながら、詩音とは違う厚みのある胸に少し躊躇する。
トランぺッターである響の筋肉のつき方は、ピアニストの詩音と違う。勿論ピアノも体幹で支えるため、腹筋も背筋もそれなりに鍛えておかなければならない。だが、肺活量は管楽器奏者ほど必要とはしない。その違いなのだろうか。
普段の生活の上でも、恐らく響は必要に駆られて何でも自分でやってしまうから、小綺麗な弟よりは男らしい体つきに育ったのかもしれない。
とはいえ、骨格から既に違うのも手伝ってはいるだろう。なで肩の詩音と違い、響は肩幅もガッチリしている。いつも線の細い弟しか見ていなかった花音には、響の体は別の生き物のように見えた。
ぼんやりしていると、響が「どないしたんや」と声をかけてくる。
「あ、ごめんね、なんでもないの。ただ、着やせするっていうのかしら、随分ガッチリした体つきだなって思って」
「詩音にも言われたな」
「体熱いわね。ゆっくり寝たら熱も下がるわ」
響は再び横になると、ベッドサイドから自分を覗く花音の髪に触れる。
「花音、綺麗やな」
「え?」
「俺が今まで
彼女は髪を弄ぶ響の手を取ると、両手で包み込んだ。
「ありがとう。でもそういう事は元気な時に言ってちょうだい。今言われても熱でボーっとしてるのかとしか思えないわ」
「それもそやな」
花音は少々動揺してしまったことを隠すかのように、「はいおしまい」と言って響にTシャツとスウェットを押し付ける。そしてさりげなくベッドから離れると、テーブルの上にスポーツドリンクと薬を並べた。
「今日はもう帰るけど、また明日来るから。何かあれば夜中でも連絡してね」
響はスウェットを頭からかぶりながら「ん、ありがとう」と答えた。
花音が家に帰ると、ちょうど風呂から上がった詩音と出くわした。
「あ、お帰り。どうだった、響」
「うん、結構熱があってね。やっとお粥食べてくれたわ。また明日も行ってみる」
コートを脱ぎながら話す姉に、詩音は何か引っかかるものを感じた。
「僕も明日一緒に行こうかな」
「何言ってるの、風邪うつされたらどうするのよ。詩音はピアニストでしょ、プロの自覚をもっと持ちなさい」
「うん……なんかね、今日は響が心配で練習が手につかなかったんだ」
「そんなことでどうするの。詩音が心配し過ぎて練習できないから早く治しなさいって明日言っておくから」
そう言いながら彼女は弟の背中を眺める。やはり響より華奢な体つきだ。
詩音の持ち味は繊細で上品な演奏であり、響のような野性味は何処にも感じられない。それは育った環境による部分もあるだろうが、その体格にも左右されている部分は少なくないだろう。
一方響の方は上品さには欠けるものの、ダイナミック且つワイルドな音で聴衆を魅了する。
生まれながらの王子と野生の狼。考えれば考えるほど不思議な取り合わせだ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、冷蔵庫からミネラルウォーターを出した詩音が突然振り返った。
「ねえ、花音」
「ん、なあに?」
「響の事だけど」
「うん」
「……いや、なんでもないよ」
「どうしたのよ」
上着を脱いでエプロンを手にした彼女に、詩音が「花音」と声を掛けた。
「ご飯、後でいいよ。外、寒かったでしょ? 先にお風呂で温まっておいでよ」
「そうね。じゃあそうするわ」
――花音、響の事、好きになったんじゃない? そう聞きそうになってしまった自分に詩音は驚愕した。
(それはどういう意味だろう)
(花音が響の事を好きになったとして、それがなんなんだ?)
(僕がとやかく言う事じゃない。だけどなんだろう、この落ち着かない感情は)
(まさかジェラシー? だとしてどちらに?)
翌日、花音は昼から響のところに顔を出した。出迎えた響は昨夜より随分と顔色が良くなっていた。
「熱、下がったっぽい。花音のおかげや」
「良かった。詩音が心配して練習が手につかないとか言ってたのよ。全くもう、あの子はいつまで経っても甘えんぼなんだから」
花音はクスクス笑いながら、響の額に触れる。確かに熱は下がったようだ。
「私も心配したのよ。お粥もちゃんと食べられない感じだったんだもの。たくさん汗かいたんでしょう」
「そやな。汗臭い?」
「そんなことはないけど」
「俺、ちょっとシャワー浴びて来るわ」
「その間に何か作っておくわね。どうせ何も食べていないんでしょう?」
「うん、頼むわ」
響がシャワールームに消えると、「なんだか通い妻みたいね」などと独り言ちながら持参のエプロンをつけ始める。
昨日来たときにも感じた事ではあるが、響の家は非常にモノが少ないにもかかわらず、必要なものはきちんと揃っている印象だ。
パッと見渡して目に付くものは、PC、キーボード、書棚、キッチンツール、衣類、工具箱、まあこの辺は普通にあるだろう、だが普通の男性の家に無いものがあった。
ミシンと大きなソーイングボックス。彼は洋裁もするのだろうか。そもそもキッチンツールも一通り揃っているではないか。お母さんと二人で暮らしていた時、彼が食事を作ることが多かったのかもしれない。
たくさん栄養摂って貰わないと……と、色々な野菜を細かく切ってスープを作っていると、響がシャワールームから出てくる音が聞こえた。
「ごめんね、すぐできるからもうちょっと待っ……」
響の腕が彼女を後ろから抱きしめた。
「響……?」
「ありがとう、花音。ホンマに、ありがとう」
花音は静かに振り返ると「じゃ、キスして」と悪戯っぽく笑った。
「何言い出すねん、からかわんといて」
「本気で言ってるのに」
「あかんて。風邪うつるし」
「大丈夫よ」
背伸びをしてくる花音を慌てて押し戻すと、耳まで赤くした響がモゾモゾ言いながら目を逸らす。
「いやあかんて。俺こんなカッコやし、発情してまうわ」
「したらいいのよ」
「あかんてホンマ頼むわ、また熱出てまうがな」
響が大急ぎでTシャツを着るのを見て花音はクスクスと笑った。
「ミネストローネ、好き?」
「うん」
尻尾を振る犬のように嬉しそうな響を見て、花音は目を細めた。
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