第8話 サッチモ

 七月に入り、響のコンサートが大阪で開かれた。コンサートと言っても響のトランペットやピアノを聴かせるというよりは、彼の作曲した映画音楽を映画のワンシーンと共に紹介するような趣向の演奏会である。

 映画自体がピアニストを目指す少年の物語なので、音楽もピアノをメインとした楽曲が多い。そのため、オーケストラが並んではいるものの、中央にセットされたピアノは響が弾くことになっている。

 彼がオーケストラをバックにピアノを弾くのはこれが初めての筈であり、途轍もなく緊張する予定ではあったのだが、先日の詩音のコンサートでの代役があったせいか、思ったほど緊張はしていない。


 響には知る由もなかったが、実はこの客席には珍しい人が来ていた。このホールで恐らく最も良い条件で聴けるであろう二階席最前列の中央にその人は座っていた。

 大路詩音である。当然お忍びなのでサングラスをかけてはいるが、じっとしていても滲み出てくる育ちの良さが周囲の視線をどうしても集めてしまい、隣に座る美女と共に尋常ならざるオーラを放っている。


 開演時間が来て緞帳どんちょうが上がると、すでに着席しているオーケストラの背後に大きなスクリーンが降りている。ここに映画のシーンを映しながらの演奏となるのだろう。


 コンサートマスターがピアノでAの音を弾くと、それぞれにチューニングが始まる。一通りチューニングが終わったところで詩音はサングラスを外す。これから大神響が出てくるのだ。


 司会者が出て来て挨拶と注意事項を述べる。勿体つけていないで早く響を出せ、と詩音は心の中で毒づく。待ちきれないのだ、彼を。

 大神響の名が呼ばれ、彼が袖から姿を現す。

 黒いシャツにスリムストレートのブラックジーンズ。カウボーイハットこそ被ってはいないが、いつものように烏の濡れ羽色のウェーブヘアを後ろで一つにまとめ、足元はウエスタンブーツである。


 この姿を見るだけで詩音の鼓動は激しくなる。詩音が磨かれた宝石なら、響はその原石――なんと恐ろしい原石であろうか。彼の音を聴く度に、その魅力に憑りつかれてしまう。


 演奏が始まった。これは物語冒頭の部分。少年が一人でピアノを弾くシーン。彼の弾くピアノに合わせて鳥が鳴き、花が咲き始める。鳥が鳴くところでフルートが入り、花が咲き始めるところで弦楽器が入る。鉄板の楽器構成だ。

 ところが、フルートが入り始める辺りから、響の様子がおかしい。何かを気にしているようだ。


「ダンパーペダル、おかしくない?」

「そうね、戻ってないわ」


 ダンパーペダルが戻らない。ずっと踏んだままと同じ状態になるので、全ての音が解放のままミュートされなくなってしまう。これでは不協和音量産機だ。


 響が唐突に演奏を辞めた。指揮者が彼をチラリと振り返ると響は静かに手を挙げた。指揮者は小さく頷くと、オケの演奏をストップした。

 客席がざわつく中、司会者が出てくる。響と二言三言交わすと、響はステージ袖へとはけて行った。


「楽器に問題が発生しました。只今からピアノを別のものに取り換えますので、十五分ほどお時間を頂戴します。申し訳ございませんが今しばらくお待ちください」


「彼もついてないわね」


 花音が腕を組んだその時だった。バタバタと走る音が聞こえ、響が楽器のケースを持ってステージに戻って来たのだ。驚く司会者からマイクを取り上げ、彼は客席に向かって頭を下げた。


「あの、待ってる間、トランペット吹きます。トイレとか行きたい方は今のうちにどうぞ。そういう用事の無い方はトランペット聴いててください」


 それだけ言うとマイクを司会者に押し付け、彼はケースから楽器を取り出した。


「ここで楽器組み立てるの?」

「そうみたいね。でも、トランペットってマウスピースを挿すだけよね? そういえば、詩音の代役の時も『お客さんはラフマニノフを聴きに来た』って言って詰め寄ったそうよ。お客さんを一秒も待たせたくなかったのかもしれないわ」


 マウスピースを付けた響は楽器ケースを閉じると、立ち上がって軽くスケールを吹いた。


「彼、相変わらず喋りが下手ね。詩音が行ってMCやってあげなさいよ」

「冗談やめてくれよ」


 それはいきなり始まった。マーチ? これは『聖者の行進』か。きちんとマーチらしいマーチとして吹いている。教科書通りの行進曲だ。


「珍しいわね、彼がマーチなんて」

「いや、これで終わる男じゃないよ、彼は」


 詩音の期待に応えるかのように、リズムが崩れて行く。

 陽気なニュー・オーリンズ。サッチモルイ・アームストロングにも似たグロウルやシェイク。軽快なグリッサンドフォール。

 いち早く気付いたドラマーが、ディキシーのリズムを刻み始める。コントラバスの一人が申し合わせたかのように、響のトランペットに合わせてベースを弾き始めた。


 このコンサートはクラシックのコンサートではなく『映画音楽の夕べ』だ。この映画ではクラシックは勿論、ジャズやラテンまで出てくる。演奏家たちもその道の第一線のプレイヤーたちが揃っているのだ。


 陽気なジャズの後ろで粛々とピアノが下げられ、代わりのピアノが搬入されていく。何ともシュールな光景ではあるが、当初の予定に無かった響のトランペットが聴けるとあって、お客さんの方は手拍子を入れて大盛り上がりだ。


「これが大神響のホスピタリティ……」


 自分ならどうするか、詩音は自問自答する。コンチェルトなら集中を途切れさせたくないから、ここでいつものようにトークで繋ぐという事はしない。きっと内心イライラしながらステージ袖で待つだろう。観客もいい迷惑だが、一番の被害者はコンサートを中断させられた自分だと思うに違いない。

 だが大神響はどうだ?

 真っ先に観客の事を考え、すぐに楽屋にトランペットを取りに走ったではないか。トークで場を繋ぐことのできない彼が唯一客を満足させられる方法、それは彼自身の演奏に他ならないのだ。


 詩音が呆然とする中、代わりのピアノのセッティングが終わり、響は上手く最後をまとめて『聖者の行進』を終わらせた。

 観客の大拍手に埋もれてお辞儀をする響に、詩音もただ拍手を贈る事しかできなかった。



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