第7話 Fを弾く指

 翌日、響は詩音の入院した病院へ見舞に行った。

 途中で花屋に立ち寄ると、「お花の持ち込みが制限されている病院もあるので、ハーバリウムは如何ですか?」と難解な呪文を唱えられ、よくわからないままそれを頼んだ。洒落た瓶にセンス良く花を詰め、オイルで満たしたものらしい。花瓶も水替えも不要なうえに、窓際に置くと光が当たって大層美しく見えるのだとか。


 詩音は個室に入院していた。ナースステーションで面会を告げると、手術の直後という事でマネージャーを名乗る人が出てきて対応してくれた。

 病院内の喫茶店で話をしようというマネージャーに、響はすぐに帰るからと言ってデイルームで話をすることにした。


「初めまして、大路詩音のマネージャーをしております大路花音と申します」


 鈴の音のような華のある声だが、口調は大人びて落ち着いている。年齢は彼と同じくらいだろうか。詩音と同じ焦げ茶色のセミロングが、小さな茹で卵のような顔を縁取っている。


「大神響です。あの、昨日、突然の申し出にすぐ対応していただいてありがとうございました。大路さんの代役なんて身の程知らずもいいところで、今更なんですけど、申し訳ありませんでした」

「とんでもない。詩音も『大神さんなら任せられる』って。あなたがちょうど来てくださっていて助かりました。健康管理には人一倍気を使っていて、幼いころから病気一つしたことが無かったものですから、一時はどうなる事かと思いました」


 ――幼いころから病気一つしたことがない? この人はどうしてそんなことが言えるのか。


「あの、失礼ですけど、大路花音さんって言いましたよね。あの――」

「ええ、詩音の姉です」


 なるほど似ているわけである。大きな瞳に長い睫毛が印象的だ。彼女は響が今まで出会った女性の中でも、とびぬけた美人と言って良かった。


「急性虫垂炎。盲腸っていうのかしら、手術は一時間で終わりました。腹腔鏡下手術でお腹にちょっと穴を開けてパパっと。明後日には退院ですって」

「良かった、大変な病気やったらどないしようって、心配で昨日眠られへんくって」

「大神さん、イメージと随分違うのね」

「え?」


 落としていた筈の視線が意図せずに上がり、花音のそれとぶつかった。女性にしてはかなり背が高い。それでも詩音より十センチ、響よりは二十センチほど下に顔がある。


「あ、ごめんなさい。大神さんってクールな印象があったものですから。たった一度トークショウでご一緒いただいただけなのに、眠れないほど心配してくれるなんて。あんな大舞台の代役も急遽申し出てくださったし」


 あの時、響の耳に届いたのだ。すぐ近くの客が「ラフマニノフ聴きに来たのに、なんで他の曲に差し替えられんねん」と呟くのを。その瞬間、響は痛烈に感じたのだ、俺もそうや、みんながラフマニノフを聴きに来ている、俺が弾かなあかん、と。


「大路詩音のラフマニノフちゃうくて申し訳なかってんけど、それでもラフマニノフを聴きに来た人ばっかりやったから」

「お客さんを大切にする人なんですね。だからあなたの演奏はお客さんの心に響くんだわ。詩音があなたの演奏に腰が抜けそうだって言ってたの、先日の鳥村楽器でのラヴェル。あれから毎日あなたの話をしているんです」

「そんな……俺なんか全然」

「きっと入院中はあなたのラフマニノフを何十回も繰り返し聴くと思うわ」


 どう考えても詩音の足元にも及ばない。やはり華やかな世界にいる人たちはサラリと社交辞令が言えるのだろう、そう響は解釈した。


「あ、あのこれ、お花。なんかオイル漬けらしいんですけど、病院はこの方がいいって聞いたんで」

「まあ、素敵なハーバリウム。ありがとうございます、詩音も喜ぶわ」

「じゃ俺、帰ります。お大事になさってください。失礼します」

「ええ、どうもありがとうございます。お気をつけて」



 花音が病室に戻ると、詩音がイヤフォンを装着してノートパソコンに見入っていた。とても待っていられなかったのだろう。

 画面をそっと覗くと、まだ見始めたばかりなのか、響が客席に向かってお辞儀をしているところだった。ふと詩音が花音に気づいて動画を止めた。


「一緒に見る?」

「ええ。イヤフォン、もう一つあったかしら」

「そこのポーチに入ってる」


 二人並んでイヤフォンをしたまま画面に見入る。鍵盤真上からのアングルと客席からのアングルで、ピアノをカメラが狙っている。

 響が椅子に座る。指揮者と目を合わせ、ゆっくりと鍵盤に指を乗せる。

 カメラが真上に切り替わり、響の手を捉える。


「大きい……」


 詩音より一回り大きいかという手だ。

 この曲の冒頭は、右手は最高でも八度1オクターヴ分でしかないが、左手はFから1オクターヴ上のA♭、実に十度分離れている。詩音でもギリギリやっと届く限界で、Fを押さえる小指がGに半分引っかかった状態で鳴らさずに弾いているのだ。

 それがどうだ。響はそのFとA♭を、全く他の鍵盤に影響を与えずに押さえているではないか。


 両手で鳴らされる和音と一番低いFの単音を、交互に弾くことで表現されている鐘の音。pianissimo非常に弱くで静かにスタートし、poco a poco crescendo少しずつ強くで盛り上がって行く、この繰り返されるFの最低音を二人は見逃さなかった。

 最初は小指、二度目も三度目も小指、四度目は薬指、五度目は中指、その後は親指で刺すように弾いている。

 詩音は全部小指で弾く。それがpianissimo非常に弱くだろうとfortissimo非常に強くだろうと変わらない。それだけの技術に裏打ちされた確かな感覚があるからだ。

 だが、響はピアニストではない。その彼が詩音と同じレベルの音を再現しようとしたとき、それを実現するためにはなりふり構っていられないのである。

 それ故に、非常に繊細で優美な音を出す詩音に比べて、響の音は如何にも荒々しくワイルドに響いてくるのだ。


「詩音が磨き上げられた宝石なら、彼は原石そのものね」


 姉の何気ない一言が、詩音の心をざわつかせる。

 原石という事は、磨けばこれよりさらに光るという事じゃないのか。あんなに野性味溢れる荒々しい魅力に、繊細で優美な側面が加わったらと思うと、詩音は気が気ではない。とんでもないバケモノが誕生してしまう。


「ごめん、ちょっと疲れたから、あとは花音が一人で聴いて。僕は後でゆっくり聴くよ」


 詩音はイヤフォンを外すと、ベッドのリクライニングを倒した。

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