第6話 ラフマニノフ

 天気予報に傘マークが並ぶ梅雨の中、一日だけ曇マークがついたその日に、詩音のコンサートがあった。

 詩音のコンサートと言うと語弊があるかもしれない。京都フィルハーモニー交響楽団の演奏会で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を演奏するにあたり、大路詩音をゲストピアニストとして招いている、と言った方がいいだろう。ラフマニノフは詩音の十八番中の十八番なのだ。


 関西で詩音がピアノを弾くと聞けば何を置いても必ず聴きに行く響が、これを見逃すわけがない。今まで行きそびれたのはインフルエンザに罹ってしまった時と水疱瘡になった時だけだ。

 この日も意気揚々と京都のコンサートホールへ向かった。


 響の住む高槻からは、JRで京都まで出て、地下鉄烏丸線に乗り換える。最寄り駅で降りたらホールはもう目の前だ。


 先日、目の前で大路詩音の『喜びの島』を生で聴いてからすっと浮かれっぱなしの響は、文字通り地に足が全く着いていなかった。何を言っても上の空、何を訊いても生返事、頭の中はあの日のドビュッシーで埋め尽くされていた。

 そんな調子だから、電車は乗り間違える、バスは乗り過ごす、自分がどこへ向かっていたのか途中で忘れる、散々な日々を過ごしていたのだ。

 そのせいもあって、この日は一時間も早く到着する計算で出発したのだが、こういう時だけは全く迷うことなく真っ直ぐにホールに着いてしまう。一時間もどうしたものかと考え、軽くコーヒーを飲んで気持ちの昂りを治めようと考えた。


 席についてからも、響はそわそわと落ち着けずにいた。

 ピアノ協奏曲と言えば、ピアノをメインにオーケストラと共演する曲だ。響には一生縁の無さそうなシロモノである。

 バックにオーケストラを従え、ステージ中央に設置されたピアノを詩音がソロで弾く……こんなゾクゾクすることがあるだろうか。演奏を聴く前からこんなに興奮して、自分は最後まで大丈夫だろうか、そんな嬉しい心配までしてしまう。

 この日の為に、この曲を聴きながら自分でも何度もピアノを弾いていたのだ。詩音がどんな風に弾くのか、それを聴くのが楽しみで、昨夜はよく眠れなかった。


 開演時間が近づき、オーケストラがステージにバラバラと上がって来る。

 コンサートマスターがピアノのAの音を鳴らす。それに合わせてそれぞれがチューニングを始める。普段ならオーボエの音に合わせるところだが、ピアノコンチェルトの場合はピアノの調律に合わせることになっている。

 今日は442ヘルツ。響の耳は1ヘルツの違いも正確に聴き分ける。華やかな演奏になりそうだ。


 ふと、響はステージ下手しもてから小走りにコンサートマスターの元へ近寄るスタッフに気付いた。二人で何やら相談した後、コンマスがオケに何か指示を出した。メンバーがお互いに顔を見合わせる。何か問題でも起きたのか。


 開演時間が過ぎた。指揮者が出てこない。何が起こっているのか。

 そこへ先程のスタッフがマイクを持って現れた。


「お客様にお知らせが御座います。本日演奏を予定しておりましたピアニストの大路詩音さんですが、急病の為たった今救急搬送されました。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが……」


 ――救急搬送だと? 大丈夫なのか? コンサートはどうなるんだ?


 「別の曲目に差し替えて」だの「払い戻しがどうの」だのというスタッフの言葉と、周りの客の「俺はラフマニノフを聴きに来たんだ」「詩音君大丈夫かしら」といった声が響の中に流れ込んでくる。


 無意識に響は立ち上がっていた。真っ直ぐステージへ向かい、スタッフに告げた。


「大神響です。俺に弾かせてください。お願いします、大路さんに連絡を」




 二十分後、響はステージ袖にいた。あれからスタッフがすぐに救急車に同乗した詩音のマネージャーに連絡を取り、詩音が「大神さんに任せて欲しい」と言ったらしいのだ。詩音にそう言われてはオケも了承するしかない。

 作曲家として名前は聞いたことがあるものの、演奏家としての実力がどの程度のものなのか全くわからないまま、この青年に託すことになってしまったのだ。


「本日偶々この会場に作曲家の大神響さんがお越しくださっておりまして、大路詩音さんの希望により、大神さんに急遽代役をお願いすることになりました。チケット代金は全額返金致し――」


 ここから先は観客の声にかき消されて響には何を言っているのか聴き取れなかった。

 どう考えてもブーイングだ。世界的なピアニストの代役に、名前も知られていないような駆け出しの作曲家である。いくら大路詩音本人の希望とあっても、客は納得しないだろう。

 なんであんなことを口走ってしまったのか、響は少し後悔した。ここでボロボロの演奏をしたら、『大路詩音』の名前に傷がついてしまう。


 ステージ袖で項垂れていると、指揮者が彼の肩に手を置いた。


「大神さんの好きなように弾いてください。私がピアノに合わせてオケを引っ張るから心配しないで。思い切ってってください」


 彼はもう一度ポンポンと響の肩を叩くと、ステージに吸い込まれていく。

 客席から拍手が起こる。その拍手が自分にも向けて貰えるのだろうかと、響は自問自答する。


「大神さん、お願いします」


 スタッフから声がかかり、響がステージに向かって歩き出す。

 薄暗い袖からステージに出るときは、いつも眩しくて目を細めてしまう。母に「怖い顔がますます怖く見えるから目をちゃんと開けておきなさい」と言われるのだが、それができたら苦労はしていない。


 響の耳に客席からの拍手が聞こえてきた。指揮者マエストロほど歓迎されていないことがわかる。絶対的なアウェーだ。

 しかも客としてきた身である。正装したオケの前で、グレーのシャツに黒のダメージジーンズ、足元はウエスタンブーツだ。明らかに異質な存在と言っていい。

 こうなると、助けてくれるはずのオケメンバーすら敵に見えてくるから不思議だ。コンマスはラスボスと言ったところか。


 客席に向かって深く一礼する。――このホールの中で、一体何人が俺を知っているのか――。

 椅子に浅く腰掛けると、マエストロが響を見てにっこり笑う。響は小さく頷いて、両手を鍵盤に置いた。

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