第5話 悪魔
「やっぱり大神響は只者じゃない」
鳥村楽器のトークショウを終え、帰宅してからもずっと押し黙ったままだった詩音が、不意にボソリと呟いた。
「それはそうでしょうね、作曲もやってトランペットも吹いて……」
「それだけいろいろこなしているのに、あのピアノ。
革張りのソファに体をあずけながらも気持ちは全く寛いではいない様子の弟に、姉は彼の好きなミルクティを淹れてやる。
「でも、世界レベルの音じゃないわ。確かにプロとして通用するとは思うけど、詩音とピアノで並ぶのは無理だと思う」
「僕は鳥肌が立ったんだよ、隅田川の時みたいに。腰が砕けそうだった。あの後何の話をしたか、全然覚えてないよ」
「大丈夫。優等生の会話だったわ」
正面に姉が座る。すぐそばにはスタインウェイのグランドピアノ。壁一面を天井から床まで利用した作り付けの本棚には、ピアノの楽譜がぎっしりと詰まっている。
「彼は……確かに僕より技術は劣るかもしれない。でもなんだろう、こう、体の芯の部分の何かを鷲掴みにしてガンガン揺さぶる、そういう音なんだ。うまく言葉にできないのがもどかしいんだけど」
「私にはよくわからないわ。ピアノに関しては落ちこぼれだもの」
詩音は頭を抱える。まただ。
「そんなことないって、花音もピアノを続けたら良かったんだ」
「いいのよ。誰だって詩音のそばにいれば、嫌が応にも自分の才能の無さに気づかされるわ。私はずっと詩音のマネジメントをしていくって決めたんだから、もう弾かなくていいの」
これまで何度となく繰り返されてきた会話。
自分の成功が姉の犠牲の上に成り立っていることは、詩音にもよくわかっている。彼女もピアノコンペティションで毎年優秀な成績を収めていたのだ。
だが、どうしても身近にいる偉大な存在に埋もれてしまう。それが弟なら尚の事、彼女の存在を『大路花音』ではなく『大路詩音の姉』にしてしまうのであろう。彼女は小学校を卒業すると同時に、突然ピアノを辞めてしまったのだ。
「大神君にかなり好かれてるみたいね」
「そうかな」
「イメージが『水の戯れ』って、誉め言葉以外に何があるのよ」
大きな目に長い睫毛、焦げ茶色の髪、ゆで卵のような白い肌。母親譲りの美貌を持つ姉だが、弟にもそのDNAはしっかりと受け継がれている。
「サン=サーンスは、ラヴェルがこの曲を発表した直後は『不協和音』って酷評したらしいよ」
「それは『亡き王女のためのパヴァーヌ』に比べて、音が複雑だったからよ」
「いきなり九度
詩音は苛立ちを隠すようにミルクティを一口飲むと、背もたれに体を預けた。
「それに大神君が言ったのはそういう事じゃないわよ。イメージって言ったじゃない。彼は詩音に水の煌きを見たんだわ。そもそも原題は『Jeux d'eau』、噴水の事でしょう?」
この曲の楽譜冒頭には「D
詩音は過去にこの曲を何度か弾いている。
最初は中学生の時。まだ体の小さかった詩音は手も小さく、第一主題の九度アルペジオはまだしも、第二主題の二度ずつのアルペジオに悩まされたものだ。
今、これだけ大きくなってもやはり苦戦することに変わりはない。それを大神響は、作曲家でトランぺッターでありながら、ピアニストでもないのにサラリと。
「素直に受け取りなさい。彼に裏なんか無いわよ。純朴って言葉が似合う人だったわ」
「まあ、そうだね」
「明日は調律師さんが来るわ。たまにはお母さんにも電話してあげて。せめてメールでも」
それだけ言うと彼女は自室に戻って行った。
この部屋も、一人でいると広すぎる。両親と一緒に住んでいたころは、常に誰かしらここにいた。
詩音が弾くか花音が弾くか、どちらにせよ姉弟のどちらかがピアノを占拠し、母がいたり父がいたりした。そしていつもダージリンの香りがしていた。
詩音がパリのコンセルヴァトワールへ通う事になった時に、彼はフランス人の母と一緒に渡航した。姉と父は日本で暮らしていたが、詩音の帰国を機に今度は父がパリへ渡った。
今では両親は仲良くパリで第二の夫婦生活を謳歌しており、成城の自宅では姉弟が二人で暮らしている。
詩音は鍵盤の蓋を開けた。
Disから始まる九度のアルペジオ。戻ってすぐのCisからのアルペジオ。これを繰り返すことで、親指の音を繋いだDisからCisへと流れる付点のメロディが現われる。
弾き始めると止まらない。
十八小節目まで徹底した分散和音。
十九小節目で唐突に始まる第二主題では、メロディは左手に移る。やはりDisからCisへの流れは変わらないが、
あの頃はまだ百六十センチ無かっただろうか。中学からの五年間で二十センチも身長が伸び、手も大きくなった。
その頃も、ずっと大神響の影は詩音の中にいた。いや、もっと昔からだ。
五歳だった。
淡いグレーの半ズボンスーツに蝶ネクタイをして、出番を待っている時だ。自分のすぐあとに弾くであろう関西代表の子が舞台袖に入って来た。
彼は自分とは違い、スーツではなかった。黒いシャツに黒いジーンズ、そして黒いハイカットスニーカー。真っ黒な癖っ毛を持つ彼は、背中にコウモリの羽が生えたら悪魔のようにも見えただろう。
十時十分を指した時計の針のようなキリッとした眉毛の下で、黒くキラキラしたオブシディアンの輝きを放つ瞳が詩音を真っ直ぐに見つめていた。
怖かった。その真っ黒な瞳に吸い込まれそうだったのだ。早くステージに逃げてしまいたかった。
やっと自分の番が来てソナチネを弾き、逃げるように客席に戻ると、ちょうどあの悪魔のような子が鍵盤に手を乗せたところだった。
悪魔が弾いたのは手品のような曲だった。詩音は彼に魔法をかけられたのだ。
あの日から、大神響が再び自分の前に現れることをずっと恐れてきた。それと同時に憧れもあった。会いたくもあり、存在を認めたくもなかった。
その男が、今、自分の手の届くところにいる。自分は彼を歓迎しているのか、いないのか。
詩音はピアノを弾く手を止めた。
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