第4話 鳥村楽器
「ご紹介します。東のプリンス・大路詩音さん、西のウルフ・大神響さんです!」
司会の声にぎこちなく足を踏み出す響の前を、詩音が堂々たる貫禄で進んでいく。身長にして約十センチほど小さい筈の詩音の背中が、響にはとても大きく見えるのが不思議だ。
――女みたいに細っこいな――詩音の背中を見ながら響はそんなことを考える。女性ファンの黄色い声の渦に埋もれて、早くも現実逃避が始まっているのだろうか。
格式高い演奏会ではタイからベストまで完璧に自分の一部として着こなしている詩音だが、今日は楽器屋さん主催のトークショウだ。黒の上下で決めてはいるものの、インに白いⅤネックのTシャツをラフに着こなしている辺りは、流石に地元という感じである。
一方、響は大阪から新幹線でやって来てそのままだ。いつものようにトレードマークともいえるカウボーイハットにウエスタンブーツ、細身のブラックジーンズに真っ黒のシャツ、巨大な影が詩音の後ろからついてきているような塩梅である。
「みなさんこんにちは、大路詩音です。よろしくお願いします」
「大神響です」
大きなグランドピアノの前にセットされた二つのカウンターチェアに誘導され、キラキラの王子様オーラを放つ詩音と、ダークな一匹狼オーラを纏った響がステージに落ち着く。
すぐさま客の中から「超かっこいい~」「うっそ、脚長すぎ!」などという声が聞こえてくる。何故この中にいて詩音は笑顔でいられるのか、響は既に帰りたくなっていた。
司会がいろいろ話を振り、詩音が面白おかしく応えている。時にはわざとボケ、時には司会にツッコみながらも品の良さを決して失わない詩音の話術に圧倒され、響はたまに「はい」とか「そうですね」とか当たり障りのない言葉を返すのが精一杯だ。
そんな響のぼんやりした思考も、二人の出会いとなった隅田ジャズフェスティバルの話題に移った瞬間に吹き飛んだ。詩音がとんでもない発言をしたのである。
「実は僕たちが最初に出会ったのはあの時じゃないんですよ」
響は耳を疑った。確かに詩音の言う通り、二人の最初の出会いは墨田川ではない。どこかのホールだ。それが何の催しだったのか今となってはわからないが、確かに昔、響と詩音が偶々同じステージに立ったことがあったのだ。
詩音はそれを覚えているのか。あれだけたくさんのステージをこなしている詩音が。
「僕たちは同い年なんですよ。五歳の時に全日本ジュニアピアノコンペティションで同じステージに立ったんです。僕が関東代表、大神さんが関西代表で」
――全日本ジュニアピアノコンペティション。そんな大会だったか――
何となく連れられて行った事しか記憶に無い響には、今一つピンと来ない。
「僕はギロックの『子供のためのアルバム』から『ソナチネ第一番』を弾いたんですよ。ちょっとピアノお借りしますね」
そう言って、彼はすぐ後ろに準備されたピアノを弾き始める。響はあの日を思い出し、全身が総毛立つのを感じた。
「ここの右手の滑らかな往復スケール、夜空にお星様がキラキラと瞬くような、そんな感じでしょう。この感じが大好きで」
「その頃から星の王子様だったわけですね」
司会者の絶妙な合いの手に笑いが起こる。
確かに響はその時の詩音の演奏に度肝を抜かれ、それから必死にこの曲を練習したのだ。彼のように満天の星空をイメージする音を再現したくて。あの日以来、響はずっとずっと詩音の背中を追い続けていた。
「そうそう、王子様。ところがそこに彗星の如く夜空を切り裂く眩しい天体が割り込んで来たんです。それが大神響という関西代表の男の子だったんですよね」
「えっ……俺?」
「ドビュッシーの『ゴリウォーグのケークウォーク』弾いたでしょう?」
唐突に滑らかなギロックがドビュッシーの刺さるようなユニゾンスタッカートに断ち切られ、響はハッと目を見開く。
そう、確かに彼はその曲を弾いた記憶があった。
響が詩音の演奏を忘れられないなら話は分かる。だが何故詩音ほどのプレイヤーがこんなどこの馬の骨ともわからないような子供の弾いたものまで記憶しているのか。
「それまで純粋なクラシックしか弾いたことの無かった僕には衝撃的でした。ケークウォークと言えばアフリカの黒人音楽、ダンスミュージックなんですよね。そこにジャズをミックスさせている。裏拍にアクセントを多用し、シンコペーションをキッチリ聴かせて、要所要所をユニゾンでスパイシーに仕上げてくる。流石ドビュッシー。でもあの曲は弾くだけなら簡単ですけど、センス良く弾きこなすのは案外難しいんですよ」
詩音はその曲を弾きながら、淀みなく甘い声で小川のせせらぎのように話し続ける。響にはできない芸当だ。
「それをね、大神響という少年は……なんていうのかな、アメリカ人? って疑っちゃうくらいジャジーに弾いて来たんです。僕、それ聴いて魂抜けたみたいになってしまったんですよね。僕の演奏が彼の前で本当に良かった。彼の方が先だったら、きっと僕は弾けなくなってましたね。それくらいのインパクトだった。それからずっとその子を探してたんですが、それっきりコンペティションには顔を出さなくなってしまって。それが最近になって作曲家としてご活躍されてると聞いて、是非お話してみたかったんですよ」
「では、当店のトークショウは感動の再会に一役買ってしまいましたかね?」
「はい! 鳥村楽器サマサマです! ありがとうございます」
司会者と詩音のトークに客がどっと沸く。衝撃の事実を目の当たりにした響は、何も言えずに呆然とするばかりだ。
「という事ですが、大神さん。大神さんは覚えていらっしゃいますか?」
「勿論……あの日から狂ったようにギロックのソナチネ弾いて。でもあんな音、とても出されへん。天使の音や、天才なんや思って。中学でプロデビューした時、ホンマに天使やったんやな、手ぇの届かへん人やって」
自分でもこんなに喋れるのかと驚くほど、響にしては饒舌だった。詩音はと言えば、このような話には慣れているのだろう、「わぁ、ありがとうございます。覚えていていただいて光栄です」などと優等生コメントを繰り出している。
「では折角ですので何か一曲ずつお願いできますでしょうか」
「はい、では僕は感動の再会に、ドビュッシー繋がりで『喜びの島』を弾かせていただきます」
笑顔で即答する詩音に続いて、一呼吸おいてから響が応えた。
「俺は大路さんのイメージで、ラヴェルの『水の戯れ』を」
その日は響にとっても詩音にとっても忘れられない日となった。
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