第3話 母と息子

「折角のご縁なんやし、お仕事お受けしてみたらどうなん?」

「俺、口下手やし」

「ほんならなおさら。ずっと口下手やって逃げるわけにもいかへんやろ。これからもっとテレビの仕事も増えるか知れんのに、どっかで克服しとかな」


 安い粉のコーヒーを二つ淹れた響がキッチンから戻ると、母は仕事の手を止めて大きく伸びをした。


「あんたはコーヒーを美味しく淹れる才能にも恵まれて、お母さん、あんたを産んでホンマに良かったわ」

「何言うてんねん。インスタントなんか誰が淹れても一緒やん」

「お母さんにはちゃうねんよ」


 六畳二間、二畳ばかりの台所。奥の部屋は寝室に使い、手前の部屋は居間に。

 寝室にはプラスチックの引き出し型衣装ケースとハンガーポール。居間の方にはローテーブルと座布団。部屋の隅には小さな本棚。そしてこの家におよそ似つかわしくない電子ピアノ。

 母子二人で暮らすには十分な間取りだったため、この二十年間ずっと何も不自由なくここで暮らしてきた。

 ここに越してくる前は何処に住んでいたのか、響にはわからない。京都の久御山というところだという事はなんとなく知っている。が、その程度だ。以前住んでいた場所の事を聞くと、決まって母が悲しそうな顔をするのを彼は知っている。父のことも。


「あと俺がやっとくし、少し休み」

「ええよ、お母さん、趣味でやってるんやし。でもそろそろ夕ご飯作らなあかんね」

「俺が作るからええよ」


 ちっとも休んでくれへん――いつものように溜息をつく。母は目を離すとすぐに何かしらの仕事をする。強迫観念でもあるのかというほど、朝起きてから夜床に就くまでずっと働き通している。

 もう五十過ぎてあちこち痛いと言いながらもこうして休みなく働いてしまうのは、一種の習慣のようなものなのだろう。否、働くことで心の安寧を保っていられるからかもしれない。


「今日な、仕事場であんたの話になったんよ」

「どっちの仕事場?」


 彼女は朝から乳酸菌飲料の宅配を、昼からは工場でコンビニのサンドイッチを作る仕事をしている。その他にこうして家で内職までやっている。


「どっちも。こないだの隅田川の大路詩音さんとのセッションの動画、ツイッターで百万アクセス踏んどったって。みんなに西のウルフとか言われてお母さん照れてしもたわ」


 東のプリンス・大路詩音。大路と王子をかけてのニックネームだが、彼の立ち居振る舞いがプリンスの名に相応しいからこそ定着したのも頷ける。

 一方、西のウルフ・大神響である。こちらも大神とオオカミをかけたダジャレだが、彼の無口でクールな佇まいが一匹狼を彷彿とさせるのであろう。


「トークショウ言うても、大路さんお喋り上手やし、あんたはそんなに話さんてもええのんちゃう。あちらさんもあんたがよう喋らへんことくらい知っとるやろし。大路さんもあんたのフォローしてくれはるて言うてんねやろ。お仕事受けてみたらええやん。練習やと思って」

「テレビと違ごて、撮り直し利かへんし」

「そういうのも慣れとかな、ね」


 そろそろ母さんにも楽させてやりたい、今までずっとずっと一人で俺を育ててきたのだから、そう思う気持ちが響に無いわけではない。内気な彼は人前に出るのが恥ずかしいだけなのだ。

 人目に触れたくないから、裏方の仕事として作曲家を選んだ筈だった。それなのに彼が作曲家としてデビューした途端にCMの仕事が入り、CM用の曲を作るだけかと思いきや、プロデューサーから「CMに出ないか」と声をかけられ、そのままズルズルと顔出しの仕事が増えて行き……。気づいた時には今をときめくピアノ界の貴公子と共に『東のプリンス・西のウルフ』などと呼ばれるようになってしまっていた。

 なぜこうなったのか、どこでこうなったのか、全く想定外の流れに彼自身が一番戸惑っていると言っても過言ではなかろう。


 そもそも響と詩音では、住む世界が違い過ぎる。

 大路詩音と言えば画家の父とフランス人モデルの母を持つ、上流階級のお坊ちゃまだ。自宅は世田谷区成城、学校もパリのコンセルヴァトワールを出ている。

 響はと言えば母一人子一人の母子家庭。大阪と言っても北の外れ、電車の音がやかましい線路沿いの六畳二間の安アパート住まいである。

 ピラミッドの上の方にいる一握りの人種と、底辺のそのまた下にいる人間だ。詩音と並ぶことでその違いを見せつけられることが怖いのではない、隣りに並ぶことが烏滸おこがましく、申し訳ない気持ちになるのだ。


 それほどまでに響は詩音を尊敬していた。崇拝と言ってもいいだろう。小さい頃から、同い年の詩音が次々と快挙を成し遂げて行くのを、自分の事のように喜んで見守っていたのである。


「早めに返事せえへんと、あちらさんも困るやろし」

「うん。今すぐ返事しとく」

「仕事受けるん?」

「うん」


 今、彼にとってできるのは、こうして母を安心させることだけだ。それがどんなことよりも彼女の心の安定につながることを、彼が一番よく知っている。

 彼は鍋を火にかけると、スマートフォンを手に取ってメールボックスを開いた。


「なあ、この仕事のギャラで焼肉せえへん?」

「何言うてんの、そんなパッと消えることに使こたらあかん。あんた作曲用のソフト買う言うとったやん。ちゃんとそれ買い」


 彼はそれ以上、もう何も言わなかった。

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