第2話 セッション

 大路詩音に促されるまま、大神響はステージへと向かう。百八十七センチの長身に加え、ブーツのヒールと帽子で人々より頭一つ分抜き出ている。


「なんという偶然、なんという幸運。東のプリンスと西のウルフが、この隅田ジャズフェスティバルにお越しくださっています!」


 興奮する司会者のマイク音声よりも、女性たちの黄色い声の方が勝っている。

 当人たちは初対面なのであろうか、お互い握手で挨拶を交わしている。


「今日はトランペットお持ちですか?」

「あ、はい」


 余裕の笑顔でリードする詩音に、響は緊張の面持ちでやっと返事をする。詩音は響にとっても憧れの人であり、雲の上の存在なのだ。


「じゃあ、お近づきのしるしに僕の為に何か一曲、吹いて貰えますか?」


 大路詩音にこんなことを言われて、断れる人間がいるものか。響はケースから楽器を出すと、マウスピースをセットしてピストンの動きを確認する。

 持ち方はジャズトランぺッターに多いピストル・グリップ。小指と薬指でトリガーの下を支え、リングに中指を通す。手の小さい人には少々きついが、大柄な響には抜群の安定性を誇るこの持ち方が合っている。


「何を吹いてくださるんですか?」

「あ……じゃあ、『星に願いを』とか」


 人々には響の態度はぶっきらぼうに映ったかもしれない。笑顔を絶やさない詩音にひきかえ、響は笑顔を作らない。声も低音なうえに必要最小限の内容をボソボソと話す。美形ではあるがそれが仇となって、怖い印象を与えがちだ。


 響がトランペットを構えると、突然、詩音がピアノを弾き始めた。ギョッとして詩音を見やると、彼は響の方に笑顔で「来い」と合図する。


 彼は伴奏を始めたのだ。


 まさか、初対面で、何の相談もなくいきなり伴奏? 演奏を終えたアマチュアバンドの参加者たちが息をのむ。

 それは響も同じだった。自分は試されているのか、それとも――。


 絶対音感を持つ響は、これがB-dur変ロ長調であることを瞬時に聴き取った。B♭管のトランペットならC-durハ長調だ。C-durで吹けと詩音は言っている。

 会場の誰もが固唾を飲んで見守る中、響は最初のゲーの音を出した。


 この音は詩音を一瞬で混乱に陥れた。今まで感じたことのない興奮が彼の全身を貫いたのだ。どんな大きなホールでも、どんなコンクールでも、取り乱すことなど一度も無かったのに。頭の中が真っ白になり、自分の意志を裏切って、ただ本能の赴くままに指が鍵盤をなぞっていた。

 フリューゲルホルンにも似た、柔らかく甘い音。大神響という男は、曲によって吹き分ける七つの音色を最大の武器としている。そんなことは詩音にとって常識レベルの情報だった。だが、実際にその音を生で聴いたことは無かったのだ。その想像を絶する世界に接していなかった。


 


 詩音がやっとの思いで演奏を終えると、司会者が追い打ちをかけるようにもう一曲二人でという提案をした。世界的なピアニストとして既に名を馳せている詩音にとって、これを断るどころか躊躇すら見せてはいけない事は、本人が最もよく理解していた。なにしろ自分は『ピアノ界のプリンス』なのだから。

 一瞬見せてしまった迷いを隠すかのように、詩音は「大神さんがご迷惑でなければ是非」と笑顔を作った。


 司会者が返事を促すように響にマイクを向ける。観客の拍手に背中を押され、響がボソリと呟いた。


「バッハの平均律一番」


 平均律クラヴィーア曲集。第一巻・第二巻から成り、それぞれ二十四の全ての調によるプレリュードとフーガで構成されている。「バッハの平均律一番」と言えば普通はこの第一巻第一番ハ長調を指す。何故ここでバッハなのか。

 わからないままに張りぼての微笑を顔に乗せ、詩音は鍵盤に指を置く。平均律クラヴィーアなら何千回何万回と弾いている。体が覚えているから呼吸するかのように指が動く。

 一小節目では気づかなかった。二小節目、デーの音を弾いた瞬間に、詩音はハッとした。もしかすると彼が聴かせたいのは『バッハの平均律クラヴィーア第一番』ではなくて……。


 詩音のピアノが四小節目に差し掛かった時、初夏の太陽を背負った響が静かにトランペットを構えた。目深に被った帽子の下から、詩音に視線を送って来る。

 やはりそういうことか――悟った詩音は五小節目を弾かずに一小節目に戻る。同時に響のトランペットが実音エーの音で上から乗って来る。


 グノーの『アヴェ・マリア』――バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻第一番ハ長調を伴奏に、ラテン語の聖句である『アヴェ・マリア』を歌詞としたメロディを乗せた楽曲である。

 響はこのメロディを詩音の弾く平均律クラヴィーア第一番に乗せてきたのだ。

 これにいち早く気づいた詩音は五小節目に入ることなく、四小節目までを前奏として響のトランペットのりのタイミングに合わせて一小節目に戻ったのである。


 初対面の人間が相談なしにいきなり始めるには、あまりにも無謀な賭けだ。だが、響は詩音を微塵も疑いはしなかった。

 先程の『星に願いを』で、大路詩音がその意図を正確に把握できる人間だという事を体で感じ取った響は、彼を信じ、彼に全てを委ねた。

 そして大路詩音はその期待を裏切らなかった。それが世界の舞台という舞台を自分のテリトリーとしている男のクオリティなのだろう。


 この日の空前絶後のセッションは、SNSに乗って瞬く間に日本中に拡散された。これが後に一大ブームを巻き起こすことになる二人の出会いだった。

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