よんよんまる
如月芳美
王子と狼
第1話 隅田川
久しぶりの東京を彼はのんびり歩いていた。
思いの外短い時間で用事が済み、今から大阪に帰るのもなんだか早い。ブラブラ散歩するのもいいかもしれない。そう思った彼は、浅草寺が近くにあるのを思い出し、なんとなく参拝していたのだった。
彼の容姿ははっきり言って良く目立つ。そんなに派手な格好をしているわけではなく、むしろ自分では地味な方だと思っている。そもそも彼は引っ込み思案なところがあって、目立つことをあまり好まない。
それでも人目を引いてしまうのは、彼の顔立ちとそのスタイルに起因しているということは誰の目にも疑いようがない。
スラリとした長身を包む黒いシャツと細身のジーンズ。緩やかに波打つ烏の濡れ羽色の髪を後ろで一つに束ね、カウボーイハットにショートブーツを履いた彼は、地味であるにもかかわらず必要以上に目立っていた。
「ねえ、あの人、
「誰?」
「ほら、スマホのCMに出てる」
「あ、似てるかも」
あちこちから聞こえてくるそんな声に、彼は心の中で「俺やない俺やない」と呪文のように繰り返す。
本堂から右に逸れ、二天門から馬道通りへ出る。そのまま真っ直ぐ行けば隅田川があった筈だという事を彼は覚えていた。
ブラブラと歩く彼の耳に、一瞬トランペットの音が割り込んできたような気がした。気のせいか、暑さにやられたか? 彼は一人苦笑すると、手に持っていたペットボトルの生ぬるくなったお茶で喉を潤す。
ふとそばの店舗に目をやり、ギョッとして思わず立ち止まる。等身大『大神響』のパネルが最新の端末を装着してこちらをじっと睨みつけていたのだ。
逃げるようにその場を離れると、隅田川が見えてきた。その向こうには東京スカイツリー。ただの電波塔にしてはデザインが洗練され過ぎていて、彼にはどちらかと言えば親しみ深い通天閣の方がしっくり馴染む。
隅田川とスカイツリーをバックに人力車に乗って記念写真を撮る年配のご婦人二人をぼんやりと眺めながら歩き、再び彼は顔を上げる。今度こそ本当に聞こえたのだ。トランペットの音が。
これは店舗から流れてくる音源ではない。生の音だ。トランペットプレイヤーの彼が聞き間違える筈が無い。
隅田川には川沿いに公園が続いている。関西在住の彼が知る筈もない、隅田公園である。その左側、上流側の方からトランペットとドラムらしき音が聞こえてくる。誰かが生演奏をしているのか。
彼の足は自然とその音のする方に向かっていく。意識しているわけではない、体が勝手に反応するのだ。
音の正体はあっさりと判明した。隅田公園でジャズフェスティバルが開かれていたのだ。どうやら地元のアマチュアジャズバンドが参加し、子供の飛び入りピアニストもいるような緩い感じのお祭りらしい。いかにもゴールデンウィークらしい企画だ。
彼は観客に紛れてバンドの演奏に耳を傾けた。アマチュアと言えどなかなかにレベルが高い。音楽を趣味としている人の人口がそれだけ多いのだろうか。演奏が終わり、拍手に紛れて司会者がバンドの紹介をしている。
「浅草おやじクインテットの皆さんでした。さて、ここで驚きの飛び入り参加者を紹介します。最新デジタルピアノのCMでもお馴染みの超美青年、『ピアノ界の貴公子』と言えば皆さんご想像がつくでしょう」
会場がざわつく。ピアノ界の貴公子と言えばあの男しかいない。サラサラの髪に優しげな焦げ茶色の瞳、柔らかな物腰、甘いマスクにいつも微笑みを湛え、礼儀正しく、会う人すべてを魅了する、まさに『ピアノ界の
「まさかまさか、そのまさかのプリンス・
まさか。こんなところに? あの大路詩音が?
誰もがそう思ったであろう。今をときめくプリンスが、
「みなさんこんにちは。大路詩音です」
期待を裏切らない甘く柔らかい声。たったこれだけで女性たちの黄色い声に包まれる。主催者側もこれは想定していなかったに違いない。
「どうもありがとうございます。デジタルピアノのCMでお世話になっているので、ご存知の方もチラホラいらっしゃるのではないかと思いますが……」
言葉はとても謙虚だが、男性アイドルに引けを取らない絶大な人気を誇っていることはその場にいる全員が知っている。
「今日はたまたまこの近くに用事があって。それでなんだか楽しい音が聞こえて来たので釣られちゃいました」
大路詩音は女性たちの声援に「あはは、ありがとう」などと手を振って応えている。この若さで堂々の貫禄である。
「それでは僕の大好きな曲を。まともにやったら十五分もかかっちゃうので、大神響アレンジの短いバージョンで」
――大神アレンジだと? そんなマニアックなものを――
ふと見まわすと、観客がいきなり倍くらいに跳ね上がっている。うわさを聞きつけて人々が集まってきたのだろうか。思わず彼はその長身を縮めてカウボーイハットを目深に被る。
Esのトリルからアンニュイな駆け上がりで始まる
大路詩音と言えばこの若さで既にクラシック界で名を馳せているピアニストだが、「ジャズは得意ではない」と公言していたように彼は記憶している。だからこその『Rhapsody in Blue』だろう。ガーシュウィンと言えば、クラシックとジャズの融合を試みた最も偉大な作曲家と言える。
苦手な分野をものともせず、こうして催しに合わせた選曲でレベルの高い演奏を聴かせて来る。流石だな、と彼は帽子の下で溜息を漏らす。
ハイレベルな演奏に魂が抜けたようになっていた聴衆も、曲が終わると同時に割れんばかりの拍手を送る。勿論彼もだ。その演奏に敬意を表するかのように、帽子を取って拍手を送った。
その瞬間、彼と大路詩音の視線が合った。ピアニストの口元は「あっ」と言った形で固まった。そして、それはそれは嬉しそうな笑顔を作るとマイクを持った。
「大神響さんですよね?」
彼は慌てて帽子を被ろうとした。が、遅かった。周りにいた観客が一斉に彼を見たのだ。
仕方なく彼は小さく頷いた。
「はい、そうです」
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