第9話 白と黒

 子供たちが夏休みに入るころ、都内のスタジオで詩音と響は顔を合わせていた。

 最近二人そろってゲストとして呼ばれることが増えた。それは詩音の代役として響がラフマニノフを弾いた事も理由の一つには挙げられるが、今回の撮影は明らかに詩音のブログに起因するものである。

 先日の響のコンサートでのハプニングについて、そのエンターテイメント性と高い演奏技術に加え、並々ならぬホスピタリティについても触れ、大神響という『作曲家の皮を被ったエンターティナー』を大絶賛する記事を書いたのだ。

 詩音自身ライバルとして偵察に行った筈なのに、帰るころにはすっかり彼の虜になってしまい、ブログで記事として取り上げずにはいられなかったのである。


 このことに最も戸惑っていたのは詩音本人であった。響を警戒すればするほど魅入られて行く。明らかに演奏レベルは詩音に劣るにもかかわらず、彼のその風貌に似合うワイルドでダイナミックな演奏に脳髄までも溶かされてしまうような感覚に陥るのだ。


 そんなことをぼんやりと考えていると、司会の女性が二人の経歴などの紹介を終えて彼らに話を振って来た。


「視聴者からの質問がいくつかあるんですが。まずはお二人の好きな食べ物のお話を聞かせていただけますか?」


 ありがちなネタだな、と思いながらもそんなことはおくびにも出さず、詩音がプリンススマイル全開で即答する。


「僕は結構甘党なんです。スイーツとか大好きで。イチゴのショートケーキが一番好きかな。大神さん、ケーキは?」

「俺は甘いの苦手です。ビターなチョコレートケーキなら」

「そうなんですか、僕なんかホワイトチョコとかミルクチョコとか、甘いの大好きですよ。チョコも苦いのが好きなんですか?」

「うーん、そうですね。ブラックなら」


 詩音は司会者より上手に響に話を振って来る。


「これでお二人にチョコレート屋さんからCMのオファーが来ますね」

「あはっ、そうですね。是非大神さんと二人セットでお願いします!」

「ティータイムはどんなものを?」

「ああ、もう僕はミルクティ一択です。姉が淹れてくれるロイヤルミルクティが、この世で一番美味しいんです」

「お姉さまもピアノコンペティションで優秀な成績を収められていましたね」

「すみませんけど……」


 突然詩音の口調が変わったのを、響は見逃さなかった。


「姉のピアノの話はカットしていただけますか?」

「あ、はい、承知しました」

「じゃあ、ここから続きで。……大神さんはコーヒーもブラックって感じですよね」

「え、あ、はい」


 一瞬にしてプリンススマイルを作る詩音に響は度肝を抜かれた。大した役者だ、世界の大舞台で場数を踏むと、こんなふうにさっと対応できるようになるのか、と。


「大神さんはいつも黒っぽい服をお召しですが、黒がお好きなんですか?」

「いえ、特に。目立つの苦手なんで、目立たないようにしてたら黒いのが増えたって言うか」

「大路さんは逆に白が多いですね」

「そうですね、演奏会ではどうしても黒のスーツになってしまうので、普段は白っぽい服を好んで着ています。レアチーズケーキとか酒蒸し饅頭とか甘酒とか、僕の好きなものは白いものが多いですね。あ、もうスイーツの話は終わってましたっけ」


 さり気なく笑いを取る詩音に、司会者の女性が「では大神さんは真っ黒い羊羹か何か?」と振って来る。


「地元のなんですけど、黒胡麻八ッ橋が美味しいんです」

「やっぱり黒ですか! 期待を裏切りませんね」


 勿論ウケを狙ったわけではない、単純に小さい頃から黒胡麻八ッ橋が好きなのだ。東京では百貨店で普通の八ッ橋と稀に抹茶餡のものが買える程度だが、大阪も高槻辺りの北部では、黒胡麻や季節限定の桃、栗などの八ッ橋も容易に手に入る。


「光と影ですね」


 ボソリと響が呟くのを聞いて、司会者も詩音も一瞬反応に困る。


「大路さんは光がよく似合う、俺は影。いつか大路さんの為にピアノコンチェルトを書くのが夢で」

「えっ、本当ですか? そんな風に仰っていただけるなんて光栄です!」


 強ち社交辞令ではなかった。あのロマンティックなラフマニノフを、野性的な中にも華やかな煌きを以て演奏した響である。しかも、詩音のイメージをラヴェルで表現した男だ、どんなものを書くのか興味があった。


「それは羨ましいですね」

「迷惑でなければ書かせていただくって感じなんで。幼稚園の頃から、大路さんは俺にとって憧れの王子様やったし」


 偶にポロリと出る関西弁。狙ってやっているなら相当の手練れと言っていいが、彼の場合は誰が見ても天然だ。案外これにやられてしまう女性ファンは多い。


「お二人の衝撃の出会いは、全日本ジュニアピアノコンペティションでしたね。あれ以来ずっとですか?」

「はい、ずっと俺の王子様です。手の届かない人やって思ってて、今こうしてここでご一緒してるのが夢みたいです」

「大路さんのファンでいらっしゃったんですね」

「シャレにならんほど舞い上がってます」


 俯きがちにボソボソと話す響は、本当に舞い上がっているらしい。まともに顔が上げられないようだ。


「ではこの辺で、お二人に演奏していただきましょう。大路さんは?」

「僕はリスト超絶技巧練習曲第五番『鬼火』を弾かせていただきます」


 リストの超絶技巧練習曲の中でも最高の難度を誇る『鬼火』。有名な『マゼッパ』よりもさらに上を行く難曲である。

 怒濤の三十二分音符重音連打。三十小節目からスタートする左手の跳躍。この跳躍は最大で2オクターヴの幅があり、これを装飾音付きの十六分で往復する。最適なポジションへと移動するためには、目隠しで弾けるほどの技術を要する。

 何から何まで規格外の曲である。これが弾ければ殆どの曲が弾けるといっても過言ではない。

 聴く者の魂を揺さぶる響の音に勝つには、技術力で勝負するしかない。なぜ響に対してここまで対抗意識を燃やしているのか全く理由を見つけることができないまま、何故かそうせずにいられない自分に苛立ちを覚えているのもまた事実であった。


「俺はプロコフィエフのソナタ第二番第四楽章を」


 響の選曲は単純に本人の好みだろうという事が容易に想像できた。プロコフィエフは響の好きな作曲家の一人であり、その斬新な管弦楽法に心酔している部分があった。

 プロコフィエフは晩年、短編小説をいくつか書いている。それはニューヨークに現れたエジプトの王がアメリカの石油王と話す物語であったり、パリのエッフェル塔が歩き回るお語であったりと、彼の曲に引けを取らない奇抜さであった。

 そういったプロコフィエフの常人ならざる部分に響は惹かれていたのだ。


 そして彼の演奏によって、詩音は再び焦慮しょうりょに駆られることになるのである。

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