――未明、わたしは金魚様との縁を切った。

 海神わたつみの姫君と、離縁を、した。

 屋敷の奥で、わたしは金魚様の泳げる水面を前に、三つ指ついて、祝詞のりとの奉じられるなかでこうべを垂れた。そしていくらかのあっけない儀式だけで、わたしと彼女との関係は終わった。わたしのお役目も終わった。

 慌ただしかったのは、むしろそれからだ。

 奥座敷を退いたわたしを、今度は女たちが取り囲んだ。湯殿で全身を磨かれ、髪を梳き香油を塗り込められ、白粉を、紅を、化粧を施され、そして高祖母のあかい打掛を嫁入り装束として着せかけられた。金魚様との別れを惜しむいとますらなく、わたしは昨晩遅くに七橋ななばしへ戻っていった朝彦あさひこへと嫁ぐ、花嫁御寮として飾り立てられた。

みどり様、お幸せになられてくださいね」

 ながく緋瀬あかせの家に仕える、老女が言った。

 ろく、ではなく、みどり、との、わたしが生まれたときに名づけられた名を正しく呼ばれて、なんだか寂しくなってしまった。

 緋瀬あかせ乙姫おとひめ君の婿として、ひとときとはいえろく、と名をあらためた娘は、もういない。

 みどり様こちらを向いてください、紅をさします。みどり様お袖を失礼。みどり様、少し爪の先を磨かせていただきますからね。

 此度の婚礼に従うために、かねてより選ばれていた三人のねえやたちから呼びかけられるたび、わたしはもはやろくとは呼ばれないことを、悲しく思った。

 ――七橋ななばし家の本邸は、緋瀬あかせの家屋敷がある山の手からは、しばし距離を置いた乙浦おとうらの街はずれにある。かの家は商いにかかわる交友のために、本家の造りは洋館仕立てに構えているというから、なじめるかどうかはいまから不安だった。

 支度も万端整ってから、またいくらかのしきたりをこなし、家長である祖父に、父に、母に暇を乞うて、わたしは緋瀬あかせの家を出た。

 緋瀬あかせ七橋ななばし、両家の間に横たわる多少の物理的な距離をゆくべく、わたしは用立てられた人力車に乗り込み、前後に供する嫁入り行列とともに、ゆるやかな坂を下った。

 みちゆきのあいだ、わたしはただ、金魚様への感傷ばかりを、胸に飼っていたように思う。

 これから嫁ぐ少女としての緊張感や、肌に触れる絹の感触や、時折すれ違う人々から投げかけられる視線や祝いの言葉などは、どこか距離があるものに思えてならなかった。ぼんやりと、うつりゆく景色だけを見つめた。街中は避け、海岸沿いの道へとくだり、海神わたつみの領地を望みつつ、わたしたちは七橋家を目指した。

 ……かような行列のなかから、不意にざわめきがたちのぼったのは、もうしばらくもゆきつづければ先方の家へと辿りつくだろうという、海原を右方眼下に見下ろす高台にさしかかりつつある時だった。

「雲が――」

 行列は止まりこそしなかったが、随行の誰かが言ったその言葉に、わたしはふと意識をとられ、供の者らが視線を遣る、左の山辺の方を見る。

 緋瀬あかせの家の方角には、まばゆいばかりに彩雲が見えた。

「おめでたいこと……!」

「瑞兆だ」

 人々はささめきあったが、当のわたしにとってはそんなどうでもよいこと、耳には入れど、それだけだった。

 よろこばしき五色の雲のはざまに、朱の、赤の、緋のとりどりの紗の領巾ひれが見えた。たおやかに泳ぐましろの裾が見えた。瑞雲にまぎれ、徐々に山手やまのて緋瀬あかせの屋敷からこちらへ――海神わたつみの擁する水面の方へと、彼女たちは天を駆け、ふうわりと宙をくだっていらした。

 ……然様さよう。たとえば、『僕は金魚様のうつくしいお姿も、お声もお言葉も、ちゃんと見聞きできる耳目をもっているようなので』と、そのように彼は言っていたのだ。

 朝彦あさひこの言葉が思い出されてしまう。あの、言葉遊びのようだと感じていたものごとの、ほんとうのことに、いま、触れてしまった。

 金魚様がたには、本当に姫神としてのお姿があって――彼は、いや、朝彦あさひこだけでなく、おそらく兄は、代々の婿たちはそのお姿をただしく拝せていたのだと、わかってしまった。そして、それを父も祖父も知っていて、信じていたのだ。本当のこととして、信じようとは思いもしなかった、わたしと、違って。……彼らの言葉は、戯れのものではなかったのだ。

 天を泳ぎ、きっと名残惜しげに乙浦おとうらの街並みを見下ろしていらっしゃるのだろう。徐々にこの海原の方角へと漂い来る彼女たちは。

 いま、姫君たちは父なる海神わたつみのふところへと、とことわにお帰りなさる。かの天女たちこそはわたしの金魚。

 いや――わたしたち緋瀬あかせの家の血筋の者たちが、代々娶った海神の姫君様がただ。

 幾人もの、何十人ものたおやかな御前ごぜん様がたは、雲間をたゆたっては、そこに姫神としてのお姿をあらわしていらした。

 わたしはただ呆然と、彼女らが袖を、領巾ひれを、裾を、たおやかに揺らしつつ近づいてくるさまをみつめていた。

 言葉など、発せられるはずもない。指先一つすら動かない。今の今にいたるまで、あなたがたを信じられなかったわたしには、ただそのお姿をこの目に焼き付けようと、懸命に瞳を見開くだけで精一杯だった。

 人々は天を仰ぎながらも、彼女ら姫君がたのことは、見えてはいないようだった。行列はゆっくりと道を進み続ける。けれど、彼女たちはふわりと海を目指し続け、とうとう、わたしたちのみちゆきと、姫御前ひめごぜがたのみちゆきは重なる。

「おや、そちらをゆかれるは婿殿か」

「お嫁入りなのね、末代の御方」

「お幸せにね、わたくしたちがそうであったように」

 ――その、言葉に。わたしは、ただただ目を瞠った。

 姫君がたはどうしたことか、地にかぎりなく近いところまで降られて、次々とわたしをとりまいては、ひとりひとり、我が身のかたわらをすり抜けていった。一言ずつ、お声をわたしに賜っては、右手の海へと泳いでゆく。

「憂えていたね。おまえは」

「恋もしていたわよね? ずっと見ておりましたわ。……せっかくの宝であるというのに、いくつもの言葉で覆い隠してしまったことも」

 さまざまにうつくしいお顔立ちの、さまざまな時の頃に緋瀬あかせの家の婿と婚礼をあげたのだろう彼女たちは、皆ほがらかに、たのしそうに、嬉しそうに、時にはいたわしそうに、やわく笑んでいらした。

「気に病まないで。父神様の御許へ帰ることは、私たちとて望んでいた」

「決めてしまった、ことなのよ。いつかはこうするべきとね」

「我らももう、の者となるべきなのだよ。土地のすみびとも、人間のこどもらも、我らも、婿殿も。皆々、いつかは旅立つ。古い約束からは逃れられない」

 ある姫君は、胸に櫛箱くしばこを抱いていた。

 ある姫君は、髪に玉飾ぎょくかざりを揺らしていらっしゃる。

 ある姫君は、目にも綾な衣をかずいてる。

 そして、たゆたってゆく彼女たちの、最後の一人とまみえたとき、わたしはおのれの両のまなこに、じわりと熱く涙すらにじむのを感じた。

「ねえ、ろく様。愛しておりますからね。けれどもわたし、今でもわたしにいっとうの贈り物をくださった、わたしの婿君をあなたよりも愛してる。だからあなたも、あなたの婿君をきっと愛してさしあげて」

 わたしの頬を、感触のない両の手指が包んだ。ましろい輪郭の、あまやかな面差しの姫御前ひめごぜは、わたしにゆるりと笑みたもうた。その華奢な鎖骨のうえには、忘れるはずもない――わたしの手を引き、あの日、兄が選んだ真珠の首飾り。

 咄嗟に、彼女の身へとこの手で触れ返したく思った。けれど、指が動くことは、ない。

「いままでずっと、いてくれてありがとう。おかの国のさいわいを、ずっと見てみたかった、私たちのために――婿君でいてくれて、ありがとう」

 彼女はそう言いのこして、するりとわたしから離れてゆく。

 あなたこそは、わたしの金魚様だった。朝彦あさひこがお世話申上げた、わたしの奥方様だった。代々、緋瀬あかせの家が擁した、わたしたちの花嫁御寮の、その末代。

 とうとうこらえきれず、わたしは小さく、言葉を取り落とした。

「あね様」

 最後の最後に手向けた呼び名は、この三年で慣れ親しんだどれでもなかった。金魚様でも、魚君うおぎみでも、姫御前ひめごぜでも、ましてや奥方様、でもなく。幼い頃にはわたしとて、彼女の婿君である兄に手を引かれて、あなたのこともまた、そう呼んだのだ。

 わたしの義姉にして、わたしの妻であった、わたしと兄の金魚様は、そして先を行く代々の花嫁の列に加わって遠ざかる。振り返りはしなかった。海神わたつみの腕のなか、水平線の彼方にまで、あかいあかい金魚のお姿でこの土地にましました、姫神様たちは去って行く。

 ずっと、わたしは緋瀬あかせの家の決断を厭い、朝彦あさひことの間にあたらしく結ばれる縁にもはりつめて身構え、逝ってしまった兄の背に執着を見せた。そのなにもかもはきっと、金魚様。あなたがたのためにと張った虚勢だったのだと……もう、認めてやってもよいと思った。

 だって、もはや去りゆくあなたがたの、かようなお声とお姿に、こうしてまみえてしまったのだ。さいわいであったと笑う花嫁御寮たちのお言葉までもを、賜ってしまった。ならばわたしは、ずっと抱えていた怖れ、悔しさ、憤り、そんななにもかもを手放して、かわりに……いままでこの手ではすくえなかった、あるいは受け取れはしなかった、言葉だとかを、感情だとかを、携えることを許せると思った。

 涙をあふれさせることだけは必死に堪えた。悲しさや悔しさやいとわしさで、道中泣きぬれたのだとは思われたくはない。

 これは、正しい意味で、望み望まれた婚礼などではない。

 けれどこれは、けっして、けっして……不幸せな結末などでも、ないのだから。

 ――そしてまたどれほどかして、花嫁行列は七橋ななばしの家へと辿りつく。

 海をも望める高台にて、七橋ななばし家の洋館の門は、花嫁御寮を迎え入れるべく開かれていた。

 敷地の内まで辿りついてから、わたしは供の者の手を借りて、人力車からそっと降りた。まだ、視界は少しぼやけている。けれど、手を取って導かれる先に待つ、わたしがまずいっとうにまみえるべき相手が誰であるのかは、きちんとわかっている。

「ようこそ、お嫁においでくださいました。みどり様」

 館の前に控えた七橋ななばし本家の人々の輪から、婿君姿の七橋ななばし朝彦あさひこがゆるやかに歩み寄り、少し緊張したような風情でわたしの名を呼び、手をさしだした。これからわたしは、きっと彼に導かれて館へと入り、ましろの洋装に着物をあらためてから、披露目の席へとつくのだという。

 しきたり通りの婚礼を、両家は望まなかった。むしろ、これまでながい年月をかけて、信仰が育んだ婚礼にまつわる伝統を、あべこべにしてひねりり、裏返すことを選んだ。それほど、金魚信仰という伝統からの脱却を、つよくつよく緋瀬あかせの家は望んだのだった。なにもかもは、きっと金魚様がたの旅立ちが、心やすきものであるようにとの願いゆえだったのだろうかと、今ならば思い至る。

 返すしぐさは、決まっていた。

 わたしはそこに、予定にはなかった返答を添える。このいま、彼にきっと伝えねばならぬと、感じた言葉があったのだ。

朝彦あさひこ、わたしあなたのこと、愛してみせるわ。恋だって抱えて、生きていく。金魚様が、そうしたみたいに」

 ちいさくささやききながら、わたしは金魚様へはとうとう伸ばせやしなかった指先を、差し出された朝彦あさひこの手へと添えた。

 はっと、朝彦あさひこの瞳が見開かれる。

「――お里帰りのお渡りを……姫御前ひめごぜがたを、もしや?」

 わたしはたいそうしあわせそうな微笑みひとつだけを、彼に返した。彼もまた、少しだけ泣きそうに目元を歪めて、笑んだ。

 それだけでも、どうやらものごとは伝わってしまうらしかった。

 けれどまあ、それも異なことではない。

 確かに恋には蓋をしたかもしれない。愛だの情だのも、わたしはいびつにこじらせた。朝彦の言葉を、信じられもしなかった。

 それでも、わたしたちはこれまでずっと、金魚様をめぐりながらに、確かに他には得がたい絆を、結び繋いできたのだもの。

「お伝えしたかった言葉のなにもかも……金魚様やみどり様に、先を越されてしまったようです」

 然様であれば。かくささやけるこの人に、今日のき日より手をとられて――神様の伴侶ではなくなったわたしは、なにひとつもはや憂いもなく、さいわいなる人の身の上へと、落ちてゆける。

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