五
――未明、わたしは金魚様との縁を切った。
屋敷の奥で、わたしは金魚様の泳げる水面を前に、三つ指ついて、
慌ただしかったのは、むしろそれからだ。
奥座敷を退いたわたしを、今度は女たちが取り囲んだ。湯殿で全身を磨かれ、髪を梳き香油を塗り込められ、白粉を、紅を、化粧を施され、そして高祖母のあかい打掛を嫁入り装束として着せかけられた。金魚様との別れを惜しむ
「
ながく
此度の婚礼に従うために、かねてより選ばれていた三人のねえやたちから呼びかけられるたび、わたしはもはや
――
支度も万端整ってから、またいくらかのしきたりをこなし、家長である祖父に、父に、母に暇を乞うて、わたしは
みちゆきのあいだ、わたしはただ、金魚様への感傷ばかりを、胸に飼っていたように思う。
これから嫁ぐ少女としての緊張感や、肌に触れる絹の感触や、時折すれ違う人々から投げかけられる視線や祝いの言葉などは、どこか距離があるものに思えてならなかった。ぼんやりと、うつりゆく景色だけを見つめた。街中は避け、海岸沿いの道へとくだり、
……かような行列のなかから、不意にざわめきがたちのぼったのは、もうしばらくもゆきつづければ先方の家へと辿りつくだろうという、海原を右方眼下に見下ろす高台にさしかかりつつある時だった。
「雲が――」
行列は止まりこそしなかったが、随行の誰かが言ったその言葉に、わたしはふと意識をとられ、供の者らが視線を遣る、左の山辺の方を見る。
「おめでたいこと……!」
「瑞兆だ」
人々はささめきあったが、当のわたしにとってはそんなどうでもよいこと、耳には入れど、それだけだった。
……
金魚様がたには、本当に姫神としてのお姿があって――彼は、いや、
天を泳ぎ、きっと名残惜しげに
いま、姫君たちは父なる
いや――わたしたち
幾人もの、何十人ものたおやかな
わたしはただ呆然と、彼女らが袖を、
言葉など、発せられるはずもない。指先一つすら動かない。今の今にいたるまで、あなたがたを信じられなかったわたしには、ただそのお姿をこの目に焼き付けようと、懸命に瞳を見開くだけで精一杯だった。
人々は天を仰ぎながらも、彼女ら姫君がたのことは、見えてはいないようだった。行列はゆっくりと道を進み続ける。けれど、彼女たちはふわりと海を目指し続け、とうとう、わたしたちのみちゆきと、
「おや、そちらをゆかれるは婿殿か」
「お嫁入りなのね、末代の御方」
「お幸せにね、わたくしたちがそうであったように」
――その、言葉に。わたしは、ただただ目を瞠った。
姫君がたはどうしたことか、地にかぎりなく近いところまで降られて、次々とわたしをとりまいては、ひとりひとり、我が身のかたわらをすり抜けていった。一言ずつ、お声をわたしに賜っては、右手の海へと泳いでゆく。
「憂えていたね。おまえは」
「恋もしていたわよね? ずっと見ておりましたわ。……せっかくの宝であるというのに、いくつもの言葉で覆い隠してしまったことも」
さまざまにうつくしいお顔立ちの、さまざまな時の頃に
「気に病まないで。父神様の御許へ帰ることは、私たちとて望んでいた」
「決めてしまった、ことなのよ。いつかはこうするべきとね」
「我らももう、あだしのの者となるべきなのだよ。土地のすみびとも、人間のこどもらも、我らも、婿殿も。皆々、いつかは旅立つ。古い約束からは逃れられない」
ある姫君は、胸に
ある姫君は、髪に
ある姫君は、目にも綾な衣を
そして、たゆたってゆく彼女たちの、最後の一人とまみえたとき、わたしはおのれの両のまなこに、じわりと熱く涙すらにじむのを感じた。
「ねえ、
わたしの頬を、感触のない両の手指が包んだ。ましろい輪郭の、あまやかな面差しの
咄嗟に、彼女の身へとこの手で触れ返したく思った。けれど、指が動くことは、ない。
「いままでずっと、いてくれてありがとう。
彼女はそう言いのこして、するりとわたしから離れてゆく。
あなたこそは、わたしの金魚様だった。
とうとうこらえきれず、わたしは小さく、言葉を取り落とした。
「あね様」
最後の最後に手向けた呼び名は、この三年で慣れ親しんだどれでもなかった。金魚様でも、
わたしの義姉にして、わたしの妻であった、わたしと兄の金魚様は、そして先を行く代々の花嫁の列に加わって遠ざかる。振り返りはしなかった。
ずっと、わたしは
だって、もはや去りゆくあなたがたの、かようなお声とお姿に、こうしてまみえてしまったのだ。さいわいであったと笑う花嫁御寮たちのお言葉までもを、賜ってしまった。ならばわたしは、ずっと抱えていた怖れ、悔しさ、憤り、そんななにもかもを手放して、かわりに……いままでこの手ではすくえなかった、あるいは受け取れはしなかった、言葉だとかを、感情だとかを、携えることを許せると思った。
涙をあふれさせることだけは必死に堪えた。悲しさや悔しさやいとわしさで、道中泣きぬれたのだとは思われたくはない。
これは、正しい意味で、望み望まれた婚礼などではない。
けれどこれは、けっして、けっして……不幸せな結末などでも、ないのだから。
――そしてまたどれほどかして、花嫁行列は
海をも望める高台にて、
敷地の内まで辿りついてから、わたしは供の者の手を借りて、人力車からそっと降りた。まだ、視界は少しぼやけている。けれど、手を取って導かれる先に待つ、わたしがまずいっとうにまみえるべき相手が誰であるのかは、きちんとわかっている。
「ようこそ、お嫁においでくださいました。
館の前に控えた
しきたり通りの婚礼を、両家は望まなかった。むしろ、これまでながい年月をかけて、信仰が育んだ婚礼にまつわる伝統を、あべこべにしてひねり
返すしぐさは、決まっていた。
わたしはそこに、予定にはなかった返答を添える。このいま、彼にきっと伝えねばならぬと、感じた言葉があったのだ。
「
ちいさくささやききながら、わたしは金魚様へはとうとう伸ばせやしなかった指先を、差し出された
はっと、
「――お里帰りのお渡りを……
わたしはたいそうしあわせそうな微笑みひとつだけを、彼に返した。彼もまた、少しだけ泣きそうに目元を歪めて、笑んだ。
それだけでも、どうやらものごとは伝わってしまうらしかった。
けれどまあ、それも異なことではない。
確かに恋には蓋をしたかもしれない。愛だの情だのも、わたしはいびつにこじらせた。朝彦の言葉を、信じられもしなかった。
それでも、わたしたちはこれまでずっと、金魚様をめぐりながらに、確かに他には得がたい絆を、結び繋いできたのだもの。
「お伝えしたかった言葉のなにもかも……金魚様や
然様であれば。かくささやけるこの人に、今日の
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