四
結局、さほどもせずに百貨店をあとにして、わたしと金魚様と
幼い日に駆けた道の両端の家々は、もはや花々の咲き誇る庭を構えてはいなかったし、港にほど近い橋の上からは、商船が絶え間なく行き交うのをまのあたりにすることはなかったけれど、それでも
大きな通りから少し脇道にそれれば、御寺さんでお坊様がたがお勤めの様子が、風に乗って聞こえてくる。その響きに耳を傾け、また折々に金魚様に言葉を手向けつつ道を進んで、細い路地をぬければ、やがて商店のたちならぶ一画にさしかかる。
諦めが悪いことは承知していたけれど……これでは、『金魚様との逢瀬』だなどとは、とても言いがたいな、との自覚ばかりが深まっていった。
「……もう、どうして、こんな」
街中をぬけて、石段を上がり、お
陽が暮れてしまう前に、金魚様をお連れしたい場所があったのだ。夕陽のうつくしい、坂道の先に開けた高台。
なので
「不甲斐ないこと。……情けのない、こと」
「そう泣き言を仰らずとも」
高台の広場までもう少しだというところで、無様なことに、わたしはもう歩けない、と弱音を憶えた。それからようやく観念して、
坂道の端、
それからわたしのかたわらに
「
きっと、いくらかの
かたわらの
「……恐れ入ります、お
わたしの靴を脱がせ、両の足を冷たいてぬぐいで包み、そしてぬぐってから、手指でじかに触れて、
その手つきは丁寧で、でも、わたしの花嫁に仕える男の人の指先は、日ごと触れる金魚様の住まいの冷たい水を日々手入れしているせいか、すこしあかぎれを飼っていて、触れられるにつれ固さも感じた。
――金魚様のために、働いている者の、手だった。
胸に、暗い情が増す。
つとめて平静を装いながら、わたしはついと視線を上げ、
空襲こそ免れたが、この街も戦前とはさまがわりしてしまった。
港をゆきかう船は、在りし日よりずっと少なくなったし、街灯もすべて供出されたため、きっとこれから夜が街を覆っても、そこにかつてのように煌々とした灯りがともることもない。家々からあがる煮炊きの煙もずっと少ない。道行く人波からだって、若い男子は、ぐっと減った。
そうやって街を眺めていると、わたしは不意に、気付いてしまった。
今日、赴きたかった
「
「……何か見えたんですか」
「火事かもしれない。どうしましょう、あのあたり……人の住まいは少ないけれど、でも」
「大丈夫、です。火事じゃありません。たぶん、炊き出しの煙ですから」
「炊き出し? どうしてあのようなところで」
少し躊躇いながら、
「本当は――あなたが
軟膏を塗り終わり、わたしの足から手を離した
「なぜ、知ってほしくはない、なんて」
呆然と、言葉がおちた。
「……
様変わりした街の様子。
すべては、この日本が欧米列強と争い――敗け……そうやって終わった大戦が、
この土地が脅かされる気配などなければ、兄はお国のため、などという大義名分を背負ってまで、戦に発つこともなかっただろう。兄が死ななければ、金魚様と交わす縁も途絶えずに、
そう思っても、なにもかも後の祭りなのである。
日本は戦に負けた。兄は死んだ。父も祖父も、金魚様とわたしの離縁を命じた。そして戦中預かっていた
――なにひとつ、言葉になるものはなかった。
「
不意に、
乱れきっているわたしの心に、それは雨粒ほどは染み渡ったのか、あるいは届かなかったのか。
だって、さきほどわたしの言葉に戸惑いをみせた彼が、まさかこんな風に、なにかをこらえるようなまなざしを、わたしに寄越すなどと。想像だに、しなかったのだ。
不意に、わたしの足に彼の指先が触れた感覚が思い出された。金魚様のためのお役目を、きちんとこなしてきた者の、てのひらの、固い熱。
ならばと、不意に胸が詰まった。
ならばわたしはどうだというのだろう。彼は、おのれの力の及ぶ範囲で、きっと金魚様の御為になることをしたのだろう。そういう男だ。
ではわたしは、この
あに様の代わりに、
たったひとつ、それこそがわたしのお役目だったというのに。気付いてしまっても遅い。わたしは課せられた働きを果たすことなど、もはや、これでは、叶わず。
ふ、と。わたしは、己をあざ笑うかのように、笑みの形に息を吐いた。
「もういいわ、
「
そもそも、だ。
――この
海神の姫君様からお言葉を賜り、そして
昔々から、そのように伝わっている。
けれどそれをいい伝えである、とわたしが信じるほかないのは、それらはすべて、この世の真実を語りやしない、昔話であると存分に知っているからだ。
だって婿君となったわたしですら、彼女らの本来のお姿、とやらにお目にかかったことはただの一度もない。であれば他の誰がそれを見出せよう。もはや神代も遠のいた当世にあっては、金魚様のお言葉も、姫神にふさわしいお姿も、誰も知ること叶わないのだ。
……けれど。どうやら、既に亡きあに様と、その他にもただひとり……この朝彦こそも、金魚様のお声を聞き取れ、そしてそのお心を汲め、あるいは姫神のたぐいまれなる美しいお姿のご様子を、見て取れるのだそうだ、と、いう。
――つまりそういう筋書きだった。
七橋家の嫡流のうち、唯一内地に残った若者である彼が、
けっして兵役逃れなどではないのだと。
けっして、お国に背いた行いではないのだと。
そういった理由のために、両家はそもそも金魚様のことを利用すらしていたというのに――金魚様の婿君としてのお役目を賜ったばかりのわたしは、かような事情に、当初気づきもせずにいたのだ。
「
「そうかしら? そんなこと、わかりやしないわ」
金魚様のご意思を察せられる、だなんて、なにもかも所詮、昔話でしか、神代の物語でしかない。
「明日の婚礼は……
不安さを押し殺しきれていない声音で発せられた
この男にだけは、わたしはどうにも嘘をつけやしなかった。今も、昔も。
「言っておきますけれど、僕だって明日のあなたとの婚礼を、厭うてなんかはおりませんからね」
この男がどうかは、わからないけれど。
「――そう。わたしもよ」
わたしは、わたしの妻の側仕えであった
三年に渡り時間をともにした盟友は、わたしにとっては、金魚様の次に愛しくて、あに様よりも大切なもの。恋と呼ぶような、病めいた感情でこそないけれど、どうしようもなく、そうなのだ。……けれどそのすべてを、胸を張って肯定できなくなってしばらくになる。
明日のわたしは、わたしたちを守ろうとした兄の心残りを捨てて、きっと
「ねえ、帰りましょう。
きっとその時、わたしはうまく笑えていなかったのだろう。
「
「もう、いいの」
うまく金魚玉を手にしながら、
今日が、最後の一日だった。
あかい
――あに様、あなたが守ろうとしたものの、今際の名残を見てみたかった。まだわたしがきちんとただしく、金魚様の婿でいるうちに。
けれどなにもかももう、おしまい。
この街は明日、神様ととことわに
「……心配せずとも、
そろりと歩き出した
「人間の女に、ちゃんと、戻るわ」
金魚様が、うまく揺らさないように提げる金魚玉のなかで、ぱしゃりと軽く水音をたてたような気はしたが――誰も、なにも、それ以上のことを、言葉にはしなかった。
明日、わたしはこの男に嫁ぐ。兄の愛した姫神を、この
結局、
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