結局、さほどもせずに百貨店をあとにして、わたしと金魚様と朝彦あさひこは、乙浦おとうらの街をふらふらと眺め歩いた。

 幼い日に駆けた道の両端の家々は、もはや花々の咲き誇る庭を構えてはいなかったし、港にほど近い橋の上からは、商船が絶え間なく行き交うのをまのあたりにすることはなかったけれど、それでも乙浦おとうら乙浦おとうらだった。

 大きな通りから少し脇道にそれれば、御寺さんでお坊様がたがお勤めの様子が、風に乗って聞こえてくる。その響きに耳を傾け、また折々に金魚様に言葉を手向けつつ道を進んで、細い路地をぬければ、やがて商店のたちならぶ一画にさしかかる。朝彦あさひこはしじゅうわたしに付き従うように、金魚様と彼女の泳ぐ水を擁したびいどろを手に控えていたが、人通りの多いかような道にさしかかった時だけは、金魚玉を胸元にかばい、わたしを先導するかのように手をとって、ゆっくりと人の波打つをかき分けるのだった。

 諦めが悪いことは承知していたけれど……これでは、『金魚様との逢瀬』だなどとは、とても言いがたいな、との自覚ばかりが深まっていった。

「……もう、どうして、こんな」

 街中をぬけて、石段を上がり、おやしろの脇を通り過ぎ。徐々に日も傾きゆく頃、わたしはすっかりみじめな気持ちでいた。

 陽が暮れてしまう前に、金魚様をお連れしたい場所があったのだ。夕陽のうつくしい、坂道の先に開けた高台。乙浦おとうらの街を見渡せるのだと、いつかあに様が語ってくださった、一画。

 なので朝彦あさひこの進言にも従わず、山辺のあたりへとうねってゆく坂道を上へと歩いて、歩いて……慣れない靴で、かかとを赤くしてしまったのだった。じくじくと、いっそ泣いてしまいたいくらいに傷む。

「不甲斐ないこと。……情けのない、こと」

「そう泣き言を仰らずとも」

 高台の広場までもう少しだというところで、無様なことに、わたしはもう歩けない、と弱音を憶えた。それからようやく観念して、朝彦あさひこに足の怪我のことを告げると、彼はわかりやすいほどに血相を変えたのだった。

 坂道の端、乙浦おとうらの街が一望できる石塀の方へとわたしをいざない、洋装のポケットに常備しているらしいハンカチを背の低い石塀へと広げて、座るように促した。

 それからわたしのかたわらに魚君うおぎみ様の金魚玉を置き、しばし姿を消し、戻ってきた頃には近くの民家から、水に濡らしたてぬぐいと、稀少な軟膏を少量とはいえ譲り受けてきたのだから……確かに、彼は辣腕の七橋ななばしの子なのだった。

魚君うおぎみ様も、ご心配召されますよ」

 きっと、いくらかの金子きんすと引き替えてきたのだろうが、それでも物資不足の昨今に、こんな些細な怪我のために。交渉ごとは彼の得意とするところではあると聞くが、呆れてしまうことだったし、そんな行いを彼にさせたわたしは、己の無様にひどく落ち込んだ。

 かたわらの魚君うおぎみ様の背が艶光るさまは、朝彦あさひこの言葉とは裏腹に、わたしを叱責しているかのように、ぎらりとまぶしかった。

「……恐れ入ります、お御足みあしを、失礼しますね」

 わたしの靴を脱がせ、両の足を冷たいてぬぐいで包み、そしてぬぐってから、手指でじかに触れて、朝彦あさひこはかかとの傷に軟膏を塗った。

 その手つきは丁寧で、でも、わたしの花嫁に仕える男の人の指先は、日ごと触れる金魚様の住まいの冷たい水を日々手入れしているせいか、すこしあかぎれを飼っていて、触れられるにつれ固さも感じた。

 ――金魚様のために、働いている者の、手だった。

 胸に、暗い情が増す。

 つとめて平静を装いながら、わたしはついと視線を上げ、朝彦あさひこのことも、魚君うおぎみの金魚玉のことも、視界に入れないように気をつけながら、少し首を傾けて、眼下に広がる乙浦おとうらの街並みを見下ろした。

 空襲こそ免れたが、この街も戦前とはさまがわりしてしまった。

 港をゆきかう船は、在りし日よりずっと少なくなったし、街灯もすべて供出されたため、きっとこれから夜が街を覆っても、そこにかつてのように煌々とした灯りがともることもない。家々からあがる煮炊きの煙もずっと少ない。道行く人波からだって、若い男子は、ぐっと減った。

 そうやって街を眺めていると、わたしは不意に、気付いてしまった。

 今日、赴きたかった西条さいじょうの河原……しだれの柳が涼しげなそのあたりからも、煙は上がっていた。

朝彦あさひこ……ねえ、西条のあたりからも、煙が」

「……何か見えたんですか」

「火事かもしれない。どうしましょう、あのあたり……人の住まいは少ないけれど、でも」

「大丈夫、です。火事じゃありません。たぶん、炊き出しの煙ですから」

「炊き出し? どうしてあのようなところで」

 少し躊躇いながら、朝彦あさひこはわたしのかかとから手を離し、そして口をひらく。

「本当は――あなたが緋瀬あかせ乙姫君おとひめぎみである間は、せめて、知ってほしくはありませんでしたが。……いま、あのあたりには、戦災孤児だとか、帰る家を失った者らとか、あるいは生活の糧を取り戻せなんだ傷痍軍人だとかが、たむろしているのだそうです」

 軟膏を塗り終わり、わたしの足から手を離した朝彦あさひこは、用の済んだてぬぐいをたたみながら気まずそうに問いに答えた。

「なぜ、知ってほしくはない、なんて」

 呆然と、言葉がおちた。

「……乙浦おとうらの土地の変容を――きっとあなたは、気に病むから」

 朝彦あさひこの声はどこまでも優しく、そして言葉は残酷だった。

 様変わりした街の様子。緋瀬あかせの家に、妻である金魚様のもとに、帰ってはこなかった兄。そして、もはや縁もありはせず、いわんや神代も、もはやこれまで、と……海神わたつみ姫御前ひめごぜと袂を別つことを決めた、緋瀬あかせの家。

 すべては、この日本が欧米列強と争い――敗け……そうやって終わった大戦が、乙浦おとうらの土地から奪っていったものの名残だった。

 この土地が脅かされる気配などなければ、兄はお国のため、などという大義名分を背負ってまで、戦に発つこともなかっただろう。兄が死ななければ、金魚様と交わす縁も途絶えずに、緋瀬あかせの家もながいながい海神わたつみへの信心を、手放しはしなかったかもしれない。

 そう思っても、なにもかも後の祭りなのである。

 日本は戦に負けた。兄は死んだ。父も祖父も、金魚様とわたしの離縁を命じた。そして戦中預かっていた朝彦あさひこの身柄を七橋家へ返すとともに、わたしすらをも、七橋の家へ嫁にやることを決めた。新しい婿のたっての望みであるから、という言葉でいくら綺麗にくくられようと……わたしが嫁ぐことで、俗世への縁を手繰る緋瀬あかせの家が、大手商いの七橋ななばし家への伝手つてをさらに強く結べるというのもまた、真実。

 ――なにひとつ、言葉になるものはなかった。

ろく様。僕は、あなたにはいっとう幸せな花嫁御寮になっていただきたかったんです。あなたの心を、曇らせたくはなかったんです。だから」

 不意に、朝彦あさひこが静かに言葉を繋げた。

 乱れきっているわたしの心に、それは雨粒ほどは染み渡ったのか、あるいは届かなかったのか。

 だって、さきほどわたしの言葉に戸惑いをみせた彼が、まさかこんな風に、なにかをこらえるようなまなざしを、わたしに寄越すなどと。想像だに、しなかったのだ。

 不意に、わたしの足に彼の指先が触れた感覚が思い出された。金魚様のためのお役目を、きちんとこなしてきた者の、てのひらの、固い熱。

 ならばと、不意に胸が詰まった。

 ならばわたしはどうだというのだろう。彼は、おのれの力の及ぶ範囲で、きっと金魚様の御為になることをしたのだろう。そういう男だ。七橋ななばし家の朝彦あさひこという少年は。

 ではわたしは、この乙浦おとうらの地のために、結局のところどれほどのことができただろう。

 あに様の代わりに、緋瀬あかせをはじめとした乙浦おとうらの地がながくながく奉る金魚様を娶って、あに様の代わりに、彼女らの婿君として魚君うおぎみたちをこの地の上で歓待し。そして――父の、祖父の……家長の言葉に従い続けるより他の道を見出せなかったわたしは、とうとう海神わたつみの娘御と、添い遂げられやしない。

 たったひとつ、それこそがわたしのお役目だったというのに。気付いてしまっても遅い。わたしは課せられた働きを果たすことなど、もはや、これでは、叶わず。

 ふ、と。わたしは、己をあざ笑うかのように、笑みの形に息を吐いた。

「もういいわ、朝彦あさひこ。結局わたしには、身代わりすらつとまらなかった」

ろく様――そんなことは」

 朝彦あさひこの、いたわりを感じさせる言葉が、歯がゆい。

 そもそも、だ。

 ――この乙浦おとうらの土地を加護せしむ、海原の神。その娘御である金魚様の夫たるべきは、緋瀬あかせの家筋に生まれる男子で、そして金魚様の、本来の……姫御前ひめごぜとしてのお姿を見つめられる者でなくてはならない。

 海神の姫君様からお言葉を賜り、そして乙浦おとうらの土地の総意をお伝えすること叶う者でなくてはならない。

 昔々から、そのように伝わっている。

 けれどそれをいい伝えである、とわたしが信じるほかないのは、それらはすべて、この世の真実を語りやしない、昔話であると存分に知っているからだ。

 だって婿君となったわたしですら、彼女らの本来のお姿、とやらにお目にかかったことはただの一度もない。であれば他の誰がそれを見出せよう。もはや神代も遠のいた当世にあっては、金魚様のお言葉も、姫神にふさわしいお姿も、誰も知ること叶わないのだ。

 ……けれど。……姿、と、いう。

 ――つまりそういう筋書きだった。

 七橋家の嫡流のうち、唯一内地に残った若者である彼が、乙浦おとうら素封家そほうかである緋瀬あかせの家へと預けられたのは、姫神様の従者たるべしと生まれついたからである……と。手を尽くせども力及ばず、姫神の婿を戦にとられた緋瀬あかせの男たちも。次代を担うものとして手塩にかけた後継たちを、皆つぎつぎに戦地でなくした七橋ななばしのお歴々も。皆が皆、戦中の時分より揺らがずに、結託してそう主張し続けた。

 けっして兵役逃れなどではないのだと。

 けっして、お国に背いた行いではないのだと。

 そういった理由のために、両家はそもそも金魚様のことを利用すらしていたというのに――金魚様の婿君としてのお役目を賜ったばかりのわたしは、かような事情に、当初気づきもせずにいたのだ。

ろく様だってこんなにも、金魚様から愛情を手向けられていらっしゃるのに」

「そうかしら? そんなこと、わかりやしないわ」

 金魚様のご意思を察せられる、だなんて、なにもかも所詮、昔話でしか、神代の物語でしかない。

 朝彦あさひこが言葉を尽くして慰めようとしてくれているのだろうとは感じるが、彼が緋瀬あかせへと預けられたそもそもの経緯が意識をよぎるに、どうにもむなしく思ってしまう。

 七橋ななばしの家へ、緋瀬あかせの家の娘として、人並みに嫁ぐがよろしかろう、と……そんな父や祖父の言葉を、黙して受け入れたわたしの不甲斐ない行いと、そんなおのれの行為にいまさらに憶える憤りともどもに。

「明日の婚礼は……ろく様には、望ましからぬものでしたか? 明日にあなたを娶る婿は、今日の魚君うおぎみの婿殿にとっては、望ましからぬ相手でしたでしょうか」

 不安さを押し殺しきれていない声音で発せられた朝彦あさひこの問いに、わたしはゆるりと首を振り、否定する。

 この男にだけは、わたしはどうにも嘘をつけやしなかった。今も、昔も。

「言っておきますけれど、僕だって明日のあなたとの婚礼を、厭うてなんかはおりませんからね」

 この男がどうかは、わからないけれど。

「――そう。わたしもよ」

 わたしは、わたしの妻の側仕えであった朝彦あさひこの、花嫁になる。そのことを、厭いきれずにいる。拒めきれずにきた。

 三年に渡り時間をともにした盟友は、わたしにとっては、金魚様の次に愛しくて、あに様よりも大切なもの。恋と呼ぶような、病めいた感情でこそないけれど、どうしようもなく、そうなのだ。……けれどそのすべてを、胸を張って肯定できなくなってしばらくになる。

 明日のわたしは、わたしたちを守ろうとした兄の心残りを捨てて、きっと七橋ななばし家へと立ち帰った彼の花嫁として、緋瀬あかせの家を出るだろう。そんな未来がありありと思い浮かべられてしまうようになってから――わたしはむしょうに、苦しくて悔しくて、不甲斐ない思いに悩まされて、そしてどうにも情けがなかった。

「ねえ、帰りましょう。朝彦あさひこ。バスの停留所までおぶっていって。歩けそうにないの。魚君うおぎみ様の金魚玉は、わたしがうまくお持ちするわ」

 きっとその時、わたしはうまく笑えていなかったのだろう。朝彦あさひこはなにかもどかしげに渋面を見せて、しばし迷っていたようだった。結局は、わたしに背をさしだすようにしてひざまずく。

ろく様――お願いですから、明日は僕がお伝えする言葉、ちゃんと聞いてやってくださいね。金魚様のことも、ご不安でしょうが……これから先のことについても、なにもかも僕らは、きちんと準備をしているのですから」

「もう、いいの」

 うまく金魚玉を手にしながら、朝彦あさひこの背におぶわれる。わたしは、わたしの奥方様の側仕えである男のしろい首筋に頬を寄せた。

 今日が、最後の一日だった。

 あかい魚君うおぎみ様の、海原へのとことわのお里帰りを前に、姫御前ひめごぜへせめて恋でも愛でも、騙りたかった。兄の代わりに、そういったものをそぶりだけでも伝えたかった。

 ――あに様、あなたが守ろうとしたものの、今際の名残を見てみたかった。まだわたしがきちんとただしく、金魚様の婿でいるうちに。

 けれどなにもかももう、おしまい。

 この街は明日、神様ととことわにたもとわかつ。

「……心配せずとも、魚君うおぎみ様とはきちんと離縁をして……明日からはきちんと、人間の男の嫁になるわ」

 そろりと歩き出した朝彦あさひこの肩口に、顔を伏せるように、埋める。泣きそうになっているこんな顔も、これなら、誰にも知られないだろう。

「人間の女に、ちゃんと、戻るわ」

 金魚様が、うまく揺らさないように提げる金魚玉のなかで、ぱしゃりと軽く水音をたてたような気はしたが――誰も、なにも、それ以上のことを、言葉にはしなかった。

 明日、わたしはこの男に嫁ぐ。兄の愛した姫神を、この乙浦おとうら此岸こがんから手放して。ながく緋瀬あかせの家が奉った、その信心と訣別けつべつをして。

 結局、朝彦あさひこを拒みきれなんかしないわたしなのだ――金魚に、兄に、申し訳が立つはずなど……とうていありはしなかった。

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