かねてより土地に根付いた七橋ななばし一族が誇る、瀟洒しょうしゃな風合いの百貨店は、戦火を生き延びてすらきらびやかだった。

「せっかく修繕をするのですから、いっそのこと内側は新装してしまおう、と……いうことらしいですよ」

 交差形の穹窿きゅうりゅう天井は、高く弧を描くようにそびえており、喫茶にしてはひろびろとして開放的だった。するりとした石を敷き詰めた床や、華奢な柱、陽のあざやかに差し込む大窓とよく似合いで、わたしは素直に感嘆の息をつく。

「盛大に、財を扱っておいでね」

「そうですね。曰わくこういった危難の時ほど、金子きんすの扱いを惜しんではならないのだそうで」

 七橋家に属するからこそ語られるのだろう朝彦あさひこの言葉には興味もあわく、わたしは眼前に据えられた、ぱちぱちと泡の跳ねる、我が名とおなじ色合いの飲み物を口にした。

 細い管を介してすすると、舌が刺激される。それでもゆっくりと飲み過ぎて、いい加減、アイスクリームは溶けかけていたし、炭酸の刺激も徐々に軽やかなものとなってきていた。

 一方、窓辺の席であるのをいいことに、金魚玉を卓上に置いた朝彦あさひこは、寒天と果物とを蜜で仕立て上げた、彩り涼やかな甘味をゆっくりと口に運んでいる。

 あれほど『魚君うおぎみ様はクリームソーダをお望みです』だなどと……わたしをそそのかしたくせに。ひとりだけ、甘ったるいものを食べて。まったく。

「ずるい。わたしだって、そちらも食べてみたかったわ」

「もう一品、頼みますか?」

「……長居をなさるおつもり?」

「それでも結構ですよ。七橋ななばし緋瀬あかせのお客人を歓迎いたします」

 朝彦あさひこは、すこしだけ微笑んで、また一口あんみつを口に運んだ。仕草には躾がゆきとどいていて、やはりこの人は、七橋ななばし家中にあっては、大切に育てられたのだろうと察せられる。

「あに様も、お好きだったわ。それ」

 ふと、もしかしたらこの人となら、わたしの無念さは共有できやしないかと魔が差した。わたしをのぞけば、誰よりわたしの花嫁の近くにいる彼を盟友とすら呼びあって、彼との間に信頼を育んだ、わたしの三年間がその試みの背を押した。

 わたしは言葉を選び、窓辺の金魚へ視線を遣りながら、朝彦あさひこに声をかける。

「あんみつも、クリームソーダも、お好きだったわ」

「甘味をお好みのお方でしたか」

「ええ。一度だけ、お相伴させていただいた。その時に、どちらにしようか。こちらにしようか。いやしかし。だなんて、とても迷っていらしたの、憶えているわ」

 金魚はきらきらとしたひかりを浴びて、水の隙間でたゆたっている。背びれ尾びれが、いかにも優美である。

「甘味も、甘味を楽しむ時間も……金魚様や、乙浦おとうらのなにもかもを愛でるのとおなじように、愛していらした」

 ――朝彦あさひこは、わたしの兄のことをさほど知らない。兄の出征が、どうにも避けられなんだと定まってのち、彼らはほとんど入れ替わるようにして、緋瀬あかせの家に預けられ、また緋瀬あかせの家を発ったのだった。

「そういったものを守るのだよと、出征なさっていった」

 さらにさかのぼれば、幼少のみぎり。その頃、齢十六にして、それまで金魚様の婿をつとめていた叔父がお役御免となり、あに様と金魚との婚礼はまとまった。宗教上のおこないとはいえ、若くして花嫁を娶ることとなったあに様は、妻となるべき金魚の代わりに、幼いわたしの手をひいて、七橋ななばし百貨店をさまよったのだった。たった一度だけの、思い出だ。

 打掛うちかけ、違う。帯、それも違う。かんざし、どうにも違う。蜜紅みつべに白粉おしろい花油はなゆに香水、どれも違う。

 そうやってうんうんうなって、いまはもう修繕の末になくなってしまった、七橋ななばし百貨店二階の離れで、つややかな真珠の首飾りの一連を購ったのだった。

 そうして最後に「今日は助言をありがとう」と、わたしはこのパーラーで、今日と同じようにクリームソーダをごちそうになったのだった。

 十も離れた妹は、助言もなにも、ただただ、初めての供連れのない気ままな外出に、憧れる長兄とふたりだけのみちゆきに、はしゃぎつつも彼のあとをついていただけだというのに。

 とはいえ、彼がとうとう帰っては来ないいまとなっては、悩みに悩んであんみつを頼んだあに様と、半分ほど中身が減ったところで、そっと器を交換したことすらも、ひどく懐かしい。兄は甘味については、大層に欲張りだったのだ。

 ――ふるくふるくより変わらずに、緋瀬あかせの花嫁である金魚様へ、華燭かしょくの典を祝う折に婿殿から捧げられる贈り物。そんな一生に一度の品を、あに様はわたしの手を引きつつ購ったのだった。

 緋瀬あかせの屋敷へと外商を呼べばそれですんだ用事なのに、わざわざあのように、自ら百貨店まで出向いて。彼は数いる姉妹のひとりでしかないわたしに、とっておきの思い出をくれたのだった。

ろく様は、兄上のことを慕っていらしたのですね」

「憧れなの。気さくな方でね、高等学校にいらした時分から、ご友人とのお出かけも、多くて。土地を離れられない跡取りの身の上でなければ、帝大へも志願されていたのではないかしら。それにね、やはり魚君うおぎみ様のことを、ほんとうにお気にかけて。あに様ったら、金魚様のお気持ちを、朝彦あさひことおなじくらいに、よくくみ取られる方だったのよ。戦地からのお便りでもね、あに様は……」

 そこで、言葉はとぎれた。兄は、その戦地で死んだのだった。

 そして我が緋瀬あかせの家は、もはや兄も死したのだからと――わたしの嫁入りの日をもってして、金魚信仰は畳む、とのたまう。長きにわたり、一族がこの土地で守り抜いてきた姫神様と離縁をし、金魚様のとことわのお里帰りを、見送ると。

「ねえ、朝彦あさひこ。わたしはきちんと、あに様の代わりの、金魚様の婿君でいられたかしら」

 饒舌すぎた己を自覚しつつも、わたしはようやく、本音を朝彦あさひこに問いかけた。卓上の、金魚様をみつめたままで。

 わたしは、ずっと怒っていた。なにもできず、なにをする力もなく、緩慢に過ごそうとも。あるいははしゃいでみせようとも。兄の死とともに金魚との離縁を告げられた、あの卯月の末日からずっと……怒りを飲み干せずにいた。

 あなたがたは、乙浦おとうらの街や緋瀬あかせの家を守る為に出征していった兄が、命と引き替えに守ろうとしたものを、愛すべき名残といつくしんで、この世にのこしてもくれないのか、と。――きっとそんな怒りを、わたしは朝彦あさひこと分かち合いたかったのだ。本音を口にして、はじめてわかった。

「まこと婿君でいらっしゃったからこそ、明日、あなたは嫁がれるのでは?」

 けれども――朝彦あさひこは、どこか他人事のようにさらりと言う。まるで、わたしの問いに戸惑っているかのような風情で、淡々と。

 そんな言葉を耳に受け入れてしまっては……さみしさに、わたしの喉から発せられようとしていた次の音など、言葉など、たやすくくびり殺されてしまった。

 そうなってしまってはもはやわたしには、あかい金魚から視線を動かさず、くちびるをひきむすぶほかなかった。もはやふたたび口を開く勇気は持てなかった。

 この街を、この土地の生活を、故郷のしあわせを崩れさせないためにと出征していった、兄の心残りの為だとしたって。盟友と呼んだ男へすら胸の内を明かせないわたしは、こんなにも臆病なのだなと思い知る。

ろく様のお心も――せめて明日のき日には、少しでもほころんでくださればよいのですが」

 朝彦あさひこがなにか、言葉を静かに口ずさんだようだったが、その中身までは聞き取れなかった。なにせわたしもおのれの感情を、いかにこの身の表層にあらわさずに制するかと苦心していたので。

 しばしの沈黙ののち、わたしは精一杯つくろった微笑みを維持するために、杯にのこったクリームソーダを、行儀良く飲み干した。

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