乙浦おとうらの街には港がしつらえられている。海原に接している。しかして山坂もある。それでも戦前より貿易は盛んで、かような街であるからこそ、こうして交通機関の復興にも、力を入れているのだった。

 まあたらしいとは言えないけれど、それでもおろしたてのワンピースに身をつつみ、わたしはようやく、坂道を下りきった先、通り沿いの停留所でバスを降りた。

 進駐軍しんちゅうぐんから下げ渡された車両は流石の馬力だったけれど、この乙浦おとうらの地形にあっては、いささかあつらえが悪いようで少々揺れる。心地のよいものではなかった。

 わたしに先だってバスを降り、こちらに手をさしのべては降車を手伝ってくれた朝彦あさひこも、さほどよい顔色とはいえなかった。彼が左手で大切に下げた硝子の容器だけは、内側にためた水もあふれさせはせず。んだ金魚玉きんぎょだまの内側を泳ぐ一疋いっぴきの金魚だけは悠々と、穏やかなひかりをうけて尾びれをきらめかせている。

魚君うおぎみは……お元気そうねえ」

「さほど変わりもなく。むしろはしゃいでおられるようです」

「よろしいこと……」

 わたしはほう、と吐息をついて、ゆっくりと妻の側仕えの顔色をうかがった。「緋瀬あかせ乙姫おとひめさんを、お供もなしにそうそうお外へやれませんよ」とは、わたしの支度を整えてくれた年かさの女中の言葉である。朝彦あさひこがわたしの行いに対して困った様子をかんばせにあらわそうと、家内いえうちの端から端までがせわしなかろうと、とにかく金魚と逢い引きにゆくのだ、と無茶ばかり主張し続けたのだから、その苦言ばかりには、それもそうだと承知をするほかなかった。

 随伴には、当然のように朝彦あさひこが選ばれたのだけども、少々早まったやも、とは既に感じている。……よりにもよって妻の側用人であるこの男がそばにいては、わたしは、素直に愛や恋ばかりを、金魚さまをみつめ語れる自信は無かった。

「物珍しいのですかねえ。あちらこちら見物なさりたいとのことですよ。魚君うおぎみさまも、ここのところはやはりお屋敷に籠もりきりでいらっしゃったから」

 なにせ金魚の様子を尋ねれば、彼はあれやこれやと達者に答える。それこそ、戦に赴いてしまった兄が、そういった戯れがお上手であったのとおなじほどに。……わたしにすらとんと判別がつかないわたしの嫁御前よめごぜ殿の表情を、彼が細やかに読み取ってはこちらへ申し伝えるというのは、時にありがたくもあり、あまり好きになれない遊びでもあった。

 朝彦あさひこが「僕は金魚さまのうつくしいお姿も、お声もお言葉も、ちゃんと見聞きできる耳目をもっているようなので」と、どこか茶目っ気すらにじませて自慢するのは、それこそ兄の出征が決まった直後に、わたしたちが引き合わされて以来のことだが……それからいまに至るまで、一度も見当の外れたことを口にしたためしはないのだから、その観察眼は見事なものなのだ。

 魚君うおぎみの声、などと。かような言葉が比喩であるとは承知しつつも、時に彼が我が細君の不調や変化を誰より早く見出すに至っては、わたしも信を置かざるをえなかった。

「では、西条さいじょうの川端でも、見物にゆく?」

「それも結構ですが。この時季ですから、きっと柳のほかはなにもございませんよ。他にされては?」

「よいのじゃないかしら。季節らしいわ。しだれの川柳」

「……百貨店のパーラーは、ようやっと昨月から、暖簾を掲げなおされたとのことですがね」

「ふうん……」

 百貨店のパーラー、と。聞いてしまえど、あまり気乗りはしなかった。

 いまさら甘味で甘やかされるよりは、涼やかに石橋のかかった川辺を闊歩したい。

 ――それに、この街の百貨店へわたしを伴い赴くなど……朝彦あさひこだって、気まずかろう。

 そう思ってかつりかつり、低いかかとをわざと鳴らしつつ、西条さいじょうへ至る方へ大通りを曲がろうと試みたけれど、なかなか朝彦あさひこが追ってくる気配もない。

 振り返っても、彼はさほど身動きを取らずにいた。それどころか、腕に提げた金魚玉を眺めたまま佇んでいる。だのにわたしの視線に気づくと、彼はこちらをふりむいて、あからさまにもにこりと笑まい、こう言うのである。

魚君うおぎみ様は、ぱちぱちとした翡翠色のソーダ水に、アイスクリームが浮かんだ飲み物が気になるとのことです」

 ――クリームソーダ、というものだ。つまり。

 幼少のみぎり、わたしもあの不思議な風味を、兄に連れられて一度だけ味わった。そしてあの優しくも刺激的な甘味のことを、夏がくるごとにわたしの口から語り聞かされた金魚様は、さてどのような品であるやらと、お気にかけられている……と、朝彦あさひこはもっともらしく言う。

 わたしは、またかつりかつりとかかとを鳴らしながら、今度は多少足早に、彼の立ち待つ場所まで戻った。不本意であるけれど……魚君うおぎみがそう申していると、彼が言うなら、しようがない。檸檬色の裾が、ほこりっぽい空気に揺れる。

「――仕方ないわね。奥方さまのご所望のとおりにするわ」

「結構なことですね。ではろくさま、七橋ななばし百貨店はあちらにございます」

 朝彦あさひこは空いている方の手指で、西条さいじょうへの道筋とはまた方向の違う曲がり角を示しわたしを促した。その通りに歩を進めれば、今度はわたしの半歩後ろを悠然と付き従ってくる。

 颯爽と大通りをゆく洋装のわたしたちは、人目をひく。伸ばした黒髪と腰回りに空色のりぼんをそれぞれ飾ったわたしと、わたしとおなじように洋装に身を包みながらも、直ぐな姿勢ゆえだろうか、わたしよりもなお風情のくっきりとした、朝彦あさひこ。そして彼の携えた金魚玉。

 山手やまのて緋瀬あかせのお屋敷と、お屋敷ゆかりの金魚様のことを、昔々からこの街に住む人々は承知しているとはいえ……いまは、戦後。欧米列強との大きな戦が終わったばかりである。街でも人の入れ替わりは激しいと聞く。真夏の夜の縁日でもないのに、わたしたちのような若者が、あかい尾ひれも優美なる、魚君うおぎみを連れてみちゆくは奇なり、とは……箱入りのわたしでも、理解はしている。そのつもりだ。

「まったく……七橋ななばしはいつだって、商いのお上手なこと」

「光栄なことです、今後ともごひいきに」

「――お実家さとの繁盛に熱心なのも結構ですけれど? 奥方さまの御身まわりのお世話も、手抜かりなくお願いしたいわ」

 ふと、心に浮かんだ言葉を口にすれば、妻の側仕えは涼やかな笑みで応えてきた。……商いのための、上等な笑み。わたしはその、誰にでも平等に手向けられる贋作の笑みをあまり好ましいとは思っていなかったから、ついつい本音を返してしまった。

 出自こそは、かの七橋ななばし家に連なるとはいえども、今日まではまだ、この男も緋瀬あかせの乙姫君に仕える人間なのである。

 わたしが、乙姫君おとひめぎみの婿をつとめる身の上であるのと、おなじように。

 ……乙浦おとうらの地にて代々商いを生業なりわいとし、今代においては百貨店を営み、戦火のなか身代を崩さずに駆け抜けた辣腕の七橋ななばし。かの家筋の子でありながら、十を三、四ほど越えた頃より緋瀬あかせの家へと預けられ、以降は俗世で商いに手も染めず、魚君うおぎみの側仕えとして勤める朝彦あさひこを、わたしは盟友とすら呼んでひさしかった。

 なにせ年の頃も近く、日々の居所も近く、身分の高下こうげめいた隔てはあれど立場も似通い、なにかと相性の良い気質であったのだ。我が金魚さまの側仕えである朝彦あさひこと、金魚さまの婿であるわたしは。

 けれどいまとなってはこの男を、わたしは心穏やかに、重用ばかりもできやしない。

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