一
悠々、わたしは
とうに不要の雪見窓をもわざわざ開け放ち、ほのか萌せる夏の気配に耳を澄ます。
翌日の婚儀の準備にあわただしい母屋の喧噪は遠く、風のさなかを時折、鳥のはばたきが伝う。みじろぎするたびに、おのが
どうせ、昨今の流行に
それでも、わたしは泣きもせずに、抗いきれもせずに、いまひとたび嫁ぐだろう。
出征していった兄の身代わりとして、姫神様の伴侶の、その代行をお務め申上げたわたしは、金魚様の婿君ではなく、人間の男の花嫁になる。
父や祖父は、そんな差配のなにもかもを「姫神様がたが、お里帰りを望まれたのだ」と、「私たちは、金魚様がたのご意思を汲まなければならないのだよ」とうそぶくが……そんな言葉、これまでは
なにもかもが定まりきっている以上、渦中の花嫁にのこされた役割は、明日――昭和二十一年の水無月を迎えるとともに、無事にこの
ならば刻限がやってきてしまうまでは、こうして散漫に生きたかった。
なにもかもは兄さえ生きて帰っていたならば、望まれるはずもない事態なのである。
披露目の衣が多少整然とせずとて、わたしも一度は金魚と婚礼を挙げた身の上だ。別にめでたき初婚でも、
ころりと身を畳に打って、寝転んだまま行儀も悪く、いまのいままで背を向けていた小机を振り向く。
かつてはつややかだった
その、あかのひるがえる
「そう――逢瀬だわ! きっとわたしだって、そうやって、恋でも伝えるべきなのだわ!」
言葉にしてみれば、どうにもそのことに心は躍り、うれしくなった。わたしは水中を泳ぐ弱りきった金魚をとっくりとみつめてから、さっと立ち上がって、座敷を後にする。
逢い引きに似合いだなと思い浮かべるのは、誰も彼も遠くの街へと嫁いでいったあね様のうちのひとりが、戦前にあつらえて置いていったまま、とうとう今日まで仕舞い込まれてしまったワンピース。あの、
「
「まあ……お支度はいいの?
育ち盛りの少年の時分から、性別にも齢にも似合わずに――それも人間に、ではなく、あかい
「僕はいっそ邪魔なので、
「あらそう」
淡々と言葉をすべらせた少年のかたわらを通り抜けざま「では皆に伝えておいでなさい」と、私は軽々言い置いた。
「わたし、逢瀬に赴いて参ります」
「――どこのどなたと?」
「そちらの座敷の金魚様と」
固い疑問の声に振り向いて、いましがた駆けてきた方へひらりと袖をはためかせ、奥にたったひとつきりの座敷を示した。
「明日の花嫁御寮が……今日は金魚様と、逢瀬を、ですか」
「そうよ」
金魚との逢瀬。その不可思議な言葉を、怪訝に思う者はいない。……なにせここは、
「人の男の妻になる前に、わたし、神様と恋を語りにゆくのよ。
昔々からこの
この
ならばこの
兄の代わりにと、お役目を定められた身代わりのわたしである。たとえ
ならば、わたしも恋だの愛だのを、人の男ではなくこの金魚様に、最後の日まで語り奉るのがせめてもの誠意であろう。
江戸の終わりも明治の花曇りも、大正の嵐も踏み越えて、
俗世に染まった男どもの言いなりになってしまうほかなくとも、せめて兄から託された誠実さだけは、手放したくはなかった。
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