実家さとを加護なさる魚君うおぎみを娶り、出征していったあに様の身代わりを務めて、三年みとせ。とうとうお役目を退く日も間近。あかい金魚様の伴侶ではなくなるために、人の男に嫁ぐその日を明日に控えた、さいごの朝のことである。

 悠々、わたしはいとまにまかせ、畳のうえに横たわり、ぼんやりと目蓋をおろしては、ゆるやかなまどろみに浸っていた。

 とうに不要の雪見窓をもわざわざ開け放ち、ほのか萌せる夏の気配に耳を澄ます。

 翌日の婚儀の準備にあわただしい母屋の喧噪は遠く、風のさなかを時折、鳥のはばたきが伝う。みじろぎするたびに、おのが衣擦きぬずれの音が耳にさわる。纏った小紋こもんとわずかこすれるのは、掛布かけふ代わりにと衣桁いこうから引きずり下ろした赤い打掛うちかけで、明日の挙式で使うのだった。江戸の頃を生きた高祖母の形見でもあるが……かまわない。いまのわたしには、億劫な代物だ。

 どうせ、昨今の流行にうたわれるような、熱烈な愛の成就でもない。それどころか、これは人の俗世のしがらみにまみれた婚礼で……わたしの一族がずっと大切にしてきたはずの、金魚様の伴侶であるというわたしの身分を、無残に打ち壊すための婚礼だった。

 それでも、わたしは泣きもせずに、抗いきれもせずに、いまひとたび嫁ぐだろう。

 出征していった兄の身代わりとして、姫神様の伴侶の、その代行をお務め申上げたわたしは、金魚様の婿君ではなく、人間の男の花嫁になる。

 父や祖父は、そんな差配のなにもかもを「姫神様がたが、お里帰りを望まれたのだ」と、「私たちは、金魚様がたのご意思を汲まなければならないのだよ」とうそぶくが……そんな言葉、これまでは緋瀬あかせという神に仕える家の立場を考えて、そういった場も控えていた彼らが、足繁く俗世の集まりに足を運ぶさまを見てしまっては――ずいぶん、おのれらに都合良くものを語るのだなと、もはや諦観の思いしか、わたしには抱えられやしない。

 なにもかもが定まりきっている以上、渦中の花嫁にのこされた役割は、明日――昭和二十一年の水無月を迎えるとともに、無事にこの緋瀬あかせの家を離れることだけだ。

 ならば刻限がやってきてしまうまでは、こうして散漫に生きたかった。

 なにもかもは兄さえ生きて帰っていたならば、望まれるはずもない事態なのである。

 披露目の衣が多少整然とせずとて、わたしも一度は金魚と婚礼を挙げた身の上だ。別にめでたき初婚でも、よろこばしきばかりの成就でもない。なんの障りがあるだろう。

 ころりと身を畳に打って、寝転んだまま行儀も悪く、いまのいままで背を向けていた小机を振り向く。

 かつてはつややかだったうるしの脚は、昨年に終わった大戦のあおりをうけ、いつのまにやら、あちらこちらが傷んだままなおされていない。代々頼みにしていた職人は昨年から病に臥し、彼の弟子は戦地へ行って……帰って、きたのかこないのか。机のうえ、小ぶりなびいどろの鉢には、たっぷりと水が張られている。わたしの花嫁である金魚が一疋いっぴきたおやかに、あかく尾を揺らめかせていた。あいかわらず、い。

 その、あかのひるがえる玉響たまゆらに。わたしははっと瞳を瞠ると、天啓のように思いついたばかりの『よいこと』を胸に、勢いよく身を起こした。

「そう――逢瀬だわ! きっとわたしだって、そうやって、恋でも伝えるべきなのだわ!」

 言葉にしてみれば、どうにもそのことに心は躍り、うれしくなった。わたしは水中を泳ぐ弱りきった金魚をとっくりとみつめてから、さっと立ち上がって、座敷を後にする。

 逢い引きに似合いだなと思い浮かべるのは、誰も彼も遠くの街へと嫁いでいったあね様のうちのひとりが、戦前にあつらえて置いていったまま、とうとう今日まで仕舞い込まれてしまったワンピース。あの、檸檬れもんのいろをした洋装と、あおぞらのような彩りの、りぼんの飾りが欲しかった。障子をこえて、えんを駆ける。途中、使用人のひとりと鉢合わせかけて、「ろく様!」とたしなめられた。大戦の終わりを迎えて早々に、和装も軽々脱ぎ捨てて洋装を選んだ少年は、らしからずわたしに厳しさをあらわにする。

ろく様、なりませんよ。怪我などされたらどうします。……そんなにいて、どこへゆかれますか」

「まあ……お支度はいいの? 朝彦あさひこ?」

 育ち盛りの少年の時分から、性別にも齢にも似合わずに――それも人間に、ではなく、あかい魚君うおぎみに側仕えとして仕えている彼は、先の春、既に齢も十七を数えた。けれども遅い変声期を終え、低くなった声は、いまだなかなかに耳へ馴染まない。

「僕はいっそ邪魔なので、ろく様のご様子をうかがってくるようにと」

「あらそう」

 淡々と言葉をすべらせた少年のかたわらを通り抜けざま「では皆に伝えておいでなさい」と、私は軽々言い置いた。

「わたし、逢瀬に赴いて参ります」

「――どこのどなたと?」

「そちらの座敷の金魚様と」

 固い疑問の声に振り向いて、いましがた駆けてきた方へひらりと袖をはためかせ、奥にたったひとつきりの座敷を示した。

 朝彦あさひこは黒のまなこを少々細めると、無意識にだろう、すこうし首をかしげた。うなじをさらした短さの髪が、わずか白い襟に触れるのが、彼の齢に似合わず少女めいて可笑おかしい。

「明日の花嫁御寮が……今日は金魚様と、逢瀬を、ですか」

「そうよ」

 金魚との逢瀬。その不可思議な言葉を、怪訝に思う者はいない。……なにせここは、緋瀬あかせの家。

「人の男の妻になる前に、わたし、神様と恋を語りにゆくのよ。朝彦あさひこ

 昔々からこのひなの土地に根を張り、けれどいまでは異国の文化も少々混ざっては栄える海辺の街で、あかい魚君うおぎみを祀っては、なお権威を誇るこの家の――わたしは末の娘である。

 この乙浦おとうらの土地を離れた兄の代わりに、兄のであるあの金魚様を、嫁御前よめごぜと呼んでは大切にしてきた身の上である。

 ならばこの今際いまわの日、わたしと金魚は、みちゆきをともにするべきなのだ。

 兄の代わりにと、お役目を定められた身代わりのわたしである。たとえ緋瀬あかせのお家が、世情にもはや抗えぬといって、世俗の水へも触れるのだといって、金魚様を祀る行いから手を離し、明日で神様とたもとを別つのだとしたって……それでも、わたしは今日までは、神様の伴侶なのだ。

 ならば、わたしも恋だの愛だのを、人の男ではなくこの金魚様に、最後の日まで語り奉るのがせめてもの誠意であろう。

 江戸の終わりも明治の花曇りも、大正の嵐も踏み越えて、緋瀬あかせの家が祀り続けた姫神様に、わたしがいくら慕う言葉をり上げても、届きやしないと存じていようとも。

 俗世に染まった男どもの言いなりになってしまうほかなくとも、せめて兄から託された誠実さだけは、手放したくはなかった。

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