92 フランソワーズ・サガンの語る、子供と男性の共通点について。
サガンのインタビュー集「愛と同じくらい孤独」の中で、彼女の思考の帰結がペシミズム(悲観主義)だと指摘されていました。
彼女は以下のように答えます。
――今皆に考えられているとおりの文化、そしてしばしばその考えどおりに行われている文化というものに対しては、ペシミストです。
というのは、このような文化では、人間は知り合ったり、理解し合ったりする時間を奪われているからです、時間がないのです……欠けているのは時間です。おそらくパリでは、夜セックスをする人はもうそんなにいないのではないかと思います。
皆きっと疲れすぎていると思うのです。
最後の一文が結局は全てなのではないか、と僕は思っています。
ちなみに、「愛と同じくらい孤独」が日本で出版されたのは1979年でした。
前回、僕は窪美澄の「よるのふくらみ」について書きました。
そこで、セックスができなくなった圭祐に足りなかったものは、子供らしく居られる場所だったのではないか、とも書きました。
幼少期に子供らしく居られる場所があれば、将来セックスレスにならなくて済むのか、と言えばよく分かりません。
二十八歳独身で、最近は「ウォーキング・デッド」を見ることくらいしか楽しみのない僕に、セックスレスの大変さなんて殆ど空の向こう側の話です。
それでも、僕はその主題に昔から興味がありました。
ツイッターでセックスレスになった夫や妻の愚痴を言うアカウントを片っ端からフォローして眺める時期もありました。
そこにある悩みは切実で、ゴールのない真っ暗闇を歩くようなものに見えることもしばしばありました。
セックスはどうしても相手があって成立するコミュニケーションです(と、あえて書きます)。
その相手が拒否すること、あるいは望まないけれど合わせてすること、はどこか魂が削られるような痛みを思わせます。
と、書くと大げさにも感じますが、真面目に考えていくと無視はやはりできませんでした。
いつだったかにエッセイで、島本理生の「Red」に登場する夫に対し、僕は嫌悪感を覚えた、といったようなことを書きました。
「Red」も「よるのふくらみ」同様、夫とのセックスがなくなった妻の話です(よるのふくらみは結婚前ですが)。
たった二作を比べて普遍的に語るのもおかしな話ですが、「Red」の夫と「よるのふくらみ」の圭祐には共通点があります。
それは性体験の相手を妻(彼女)しか知らない。
また、彼らは忙しい仕事に就き、責任ある立場に立っています。
彼らが望む妻(彼女)像は、極めて保守的です。
仕事から帰ってきたら、ご飯があって、部屋は掃除してあり、お風呂も沸いている。
昭和の、テレビドラマのような光景ですが、それを望む男性が一定数いることもなんとなく理解できます。
自分の両親がそうだったから、結婚相手にはそれ(家庭的)を求める、と言う人と出会ったこともあります。
「Red」と「よるのふくらみ」の二人の男性は自分の両親、とりわけ母親と良好の関係を築いています。
それ故に、結婚相手に対して、自分の母親を重ねる、あるいは重ねないにしても、基準にはしてしまう。
とても自然に、何の疑いもなく。
そんなことを考えてみると、またサガンの言葉が浮かんできました。
「愛と同じくらい孤独」で、サガンはインタビュアーに「あなたは男性のことを少し子供であるかのようにお話になる」と尋ねらていました。
返答は以下のようになります。
――子供と男の人にはずいぶん共通点がありますもの……。
男の人は傷つきやすいんです、カウボーイごっこをしたがるのですが、人が自分の西部劇にのってくれないのではないかと、いつも気にしています。
わたしは男の人に同情の気持ちを持っています。男性は女性よりも問題を多く抱えています、それは、現代では男性は女性と競争しなくてはならなくなったというのが大きな理由です。
これを読んだ時、ツイッターのある呟きを思い出しました。
こちらも引用させていただきます。
――働くために大人になり、子どもに戻るために働く
呟いた人は男性でした。
サガンは子供と男の人は共通点がある、と言いましたが、実際の男性が望むのは「子ども、そのものになること」なのではないか、と僕は考えます。
つまり、一定数の男性が望む家庭の形は妻を仮の母に見立て、自分の身の周りの世話をしてもらうことが望みなのではないか。
会社で働き(大人になり)、家に帰って休む(子どもに戻る)。
そう考えると、子供は確かにセックスはしないし、家に囲った妻は母の代理である為、やっぱり母ともセックスはしない。
だからセックスレスになる。
やや強引なロジックだと理解しています。
セックスレスになる理由は、その人の数だけあってしかるべきです。
ただ、男性の本質的な部分で、サガンが指摘するように「子供と男の人」には共通点がありますし、欲望の一つとして「子どもに戻る」もある気がします。
当たり前ですが、子供に戻る為に妻を母の代理にしてしまうのは、あまりにも幼稚な帰結です。
本人たちがそれで良いのであれば、もちろん、それで良いのですが。
個人的に、それを手放しに認めることはできないのですが、僕は「よるのふくらみ」の圭祐に必要なものは「子供らしく居られる場所」だと書きました。
それは逆に言えば大人らしくあることの否定です。
何度か、引用している杉田俊介の本に答えらしいものがあったので、最後にこちらを引用させてください。
――怖いと言えること、泣けること、逃げられること。それは過去のトラウマを克服するために、大切なことだ。
しかし、世の中の男性たちは、「男らしさ」を守るために、自らの脆弱性や恐怖を否認せざるおえない。あたかも、この社会は、男たちは、感情を乖離させ、無痛化に陥ることを積極的に推奨しているかのようだ。
僕が書く「子供らしく居られる場所」は言ってしまえば、素直に怖いと言えて、泣けて、逃げられる場所です。
それによって、問題が解決するのかは分かりませんが、必要な場であるとは思います。
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