90 亡霊である「ゴジラ」から「ポケモン」へ。
最近、ちょっと気になってポケモンについて考えていました。
理由はとても単純で、文芸評論家の加藤典洋のゴジラ論を読んだからでした。
加藤典洋は2019年5月16日に肺炎のため亡くなりました。
村上春樹評論を同時代でし続けた評論家でした。
直近で、僕が目にした加藤典洋の名前は2019年4月のすばるで
《「はらはら」から「どきどき」へ ――村上春樹における「ユーモア」の使用と『1Q84』以降の窮境》
という講演でした。
この講演では一つの(加藤典洋いわく小さな)問題起訴が成されます。それは以下のようになります。
――小説において、ユーモアとは何か。村上(春樹)の作品において、ユーモアとは何を意味しているのか。
ここにあるのは、そういう問いです。
村上の小説において、ユーモアとは本質的なものです。彼を作っているのは、世界との「離隔」の感覚、自分の生まれ育った土地と世界への「距離」の感覚であり、それが彼をこれまでの日本の小説家から大きく切り離した要因でした。そしてユーモアは、そこから生まれてきました。
しかし、『ねじまき鳥クロニクル』以降、ユーモアを生む「はらはら」の空間が消えていく、というのが加藤典洋の問題起訴でした。
なるほど、と頷きつつ、村上春樹は本人が「職業としての小説家」で書くように「剃刀の切れ味」を「鉈の切れ味」に転換し、更に「鉈の切れ味」を「斧の切れ味」に転換が成されてきました。
剃刀の切れ味にはあったスマートさ、鉈の切れ味の時には失われている、なんてことは起りえることです。それがその作家の本質的なものだったとしても。
ですが、村上春樹の話は置いておいて、ポケモンの話をしたいと思います。
ただ、その前に更にゴジラの話を書かせてください。
僕が読んだ加藤典洋のゴジラ論はKotobaという雑誌に載った「敗者の想像力」でした。
そこで、「なぜ、ゴジラは日本の大衆文化、サブカルチャーを代表する長命の文化表徴になったのか?」という問いが立てられます。
答えは以下のようになります。
「ゴジラが、戦後の日本人にとって、第二次世界大戦で死んだ兵士たち――戦争の死者たち――の客観的相関物、つまりその体現物として無意識のうちに受けとめられているからではないか。ゴジラは、やってくるのではない、帰ってくる」
ちなみに、この雑誌の発売日は2015年12月6日で、庵野秀明の「シン・ゴジラ(2016年7月29日)」以前のものです(そういう意味では確かに、2016年にゴジラは別の意味を持って帰ってきました)。
加藤典洋いわくゴジラは戦争の死者である「亡霊」です。
――戦後の日本人にとって、戦争の死者は「なつかしい」、そして「恩義も感じる」、と同時に「うしろめたい」、面と向かって会うのが「恐ろしい」存在――不気味な存在――に変わってしまった。
不気味な存在、ゴジラ。
しかし、そのゴジラを平成では明るく、ポップにしていきます。
例えば、2001年のゴジラは「とっとこハム太郎」と同時上映でした。2001年と言えば、僕は10歳かそこらで、ゴジラは間違いなく子供たちのものでした。
この現象に対し、加藤典洋は以下のように書きます。
――不気味な存在は、なんとか同化し、消化して無害化、衛生化に努めなければならない。ゴジラを、日本の社会にとって無害な、むしろ「かわいい」存在になるまで、飼い馴らし、馴致(じゅんち)すること。
その「不気味なもの」から「かわいいもの」に向けての逃走の切実さが、「ポケモン」を作り、あれほど多くの「かわいい」アイテムの出現をその後の日本文化にもたらすことになる。
その「かわいい」アイテムを出現させる「ポケモン」は現在、ハリウッドで「名探偵ピカチュウ」というタイトルで実写映画化されました。
そして、少し遅れて「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」というハリウッドゴジラの続編が公開されます。
日本における「不気味なもの」と「かわいいもの」がアメリカでどういう風に描かれているのか、僕はまだどちらも見ていないので、語ることはできません。
ただ、戦争の死者である「亡霊」の残滓は形を変え、現代を漂い、日本を超え世界でその影響を持ち始めたように思えます。
ゴジラに関しては庵野秀明の手によって、原発のメタファーとして東京のど真ん中に立ち尽くして残されたことで、戦後の亡霊としての機能とは別の意味が附与されました。
まさに「シン(新)」ゴジラですが、ポケモンは常に一定の世界観を提供し続けています。
ポケモンはあの世界観を保つ為のルールを守って、物語が構築されていきます。よくよく見ると、あの世界には肉や魚を食べる習慣はなく、またポケモンは死ぬのではなく「ひんし」になるだけとされています。
死と食物連鎖のない世界。
ポケモンは相棒で、友達。
隣人を愛せと、言い続けるような物語。
その上でポケモンに負担のかかる「メガシンカ」なるシステムがあったのですが、それは今年の十一月に発売される新作「ポケットモンスター ソード・シールド」では廃止されると発表がありました。
その代わりに「ダイマックス」なるポケモンが巨大化して、戦えるというシステムが導入されるそうです。
村上春樹の「剃刀の切れ味」を「鉈の切れ味」の転換で照らし合わせると、ポケモンは転換しながら、常に最初の「剃刀の切れ味(かわいい)」に戻ろうとしているように僕は思います(初代の赤、緑のリメイクがどれだけ出てるんだ、と)。
しかし、ただ戻っただけでは商品としては成り立ちません。常に最初の「剃刀の切れ味(かわいい)」に寄せながら、現代的な新しい側面を見せようとしていきます。
それが成功しているのか、失敗しているのか、はいまいち僕には判断がつかないのですが、コンテンツにとっての本質的なものは見逃していないように思います。
その一点について、ポケモンは注目すべきコンテンツのように感じます。
さて、最後に一つ。
新作に導入される「ダイマックス」というシステム。
初めて見た時、僕はポケモンが遂に「ゴジラ化」するんだなぁ、と思ったりしました。
それは間違っても不気味なものは含まない健全でかわいいのとしてですが。
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