89 100パーセントの恋愛小説「木漏れ日に泳ぐ魚」。

 書いたかどうか覚えていませんが、去年の一年を通しての目標が「一週間、お酒を飲まない」でした。

 五日くらいまでは達成できたと記憶していますが、結局は一年を通して酒ばかりを飲んでいました。


 このままじゃダメだ、と十一月頃に「一週間、ランニングする」と宣言し、酒を飲んだ後でも問答無用で走って達成しました。

 何かをしない目標よりも、何かをする目標の方が達成しやすい。それが僕のある種のライフハックでした。


 そんな訳で、今年の目標は何にしようかな? と考え「読んだり、観た作品を記録する」にしました。

 僕は少し前に自分が何の小説を読んでいたか、映画を観ていたか、というのを忘れてしまいます。作品名を出されれば、あらすじくらいは浮かんでくるのですが、いつごろ読んだかというのは思い出せなかったりします。


 という訳で僕の読んだ/見た作品記録が今年の目標にしたのですが、何に記録しよう? という問題がありました。

 六月も過ぎ、今年もあと半分となって今更こんなことを考えるなんて、我ながら有りえないと思うんですが、そういう問題が立ち上がってきたのだから仕方がありません。

 と考えた結果、エッセイがすでに記録の役割を果していたのではないか? と行きつきました。


 つまり、このエッセイが日記であり、創作活動記録でもある、と。

 こじつけも良いところですが、ノートやアイフォンのメモに残すより確実なので、仕方がありません。

 その為、今回も読んだ小説について書きます。


 僕は少し前に島本理生の「Red」を読み、次に本谷有希子「異類婚姻譚」を読んだと書きました。

 それに続いて、恩田陸の「木漏れ日に泳ぐ魚」を読みました。

 こちらのあらすじを解説の鴻上尚史から引用させていただきます。


 ――一つの部屋に、男女が一人ずつ。具体的な登場人物はこの二人だけ。そして、章ごとに男の視点と女の視点が入れ代わる。

 読み進めるうちに、どうやら、二人は今まで同居していて、引っ越しを決め、最後の夜を過ごそうとしていると分かってくる。

 そして、さらに読み進めれば、二人はある殺人事件に関わっているのかもしれないという予感がしてくる。


 この「殺人事件に関わっているかもしれない」が厄介で、僕は最初なんの予備知識もなく「木漏れ日に泳ぐ魚」を開いた為にミステリー小説という印象で読み進めてしまいました。

 しかし、この小説は紛れもない恋愛小説でした。

 あえて書くなら、以下のようになります。


 ――これは恋愛小説です。ひどく古ぼけた呼び名だと思うけれど、それ以外にうまい言葉が思いつけないのです。激しくて、物静かで、哀しい、100パーセントの恋愛小説です。


 引用したのは村上春樹の「ノルウェイの森 上」の帯です。

 多くの人を勘違いさせ、ベストセラーにしてしまったキャッチコピー「100パーセントの恋愛小説」。


「木漏れ日に泳ぐ魚」を読んだ人が必ずしも村上春樹を読んでいるとは思えませんが、僕の最初の感想は「ノルウェイの森」だ、でした。

 終盤、狙ってなのか分かりませんが、「木漏れ日に泳ぐ魚」は「ノルウェイの森」的な展開を見せます。

 それは解説の鴻上尚史の文章からも分かるものでした。

 今回、実は「木漏れ日に泳ぐ魚」と「ノルウェイの森」を比べることがメインではないのですが、少々無視できない部分もあるので、さらっと書かせていただきたいと思います。


 評論家の石原千秋が「謎とき 村上春樹」という本の中で、「ノルウェイの森」を取り上げています。

 そこで「ノルウェイの森」は恋愛小説として読者に受け入れられなかった、と書いています。

 その理由は恋人たち(登場人物)が心を通わせていないからだ、と言います。

 ノルウェイの森の恋人たちは愛し合っていなかった、それが「この小説を理解する前提でなければならない」と石原千秋は書きます。


 ――心を通わせていない「恋人たち」の関係が「恋愛」であるはずがないという批判は理解できないわけではない。しかし、仮にこの「恋人たち」の関係が「恋愛」でないとしても、それを書いた小説が「恋愛小説」でないとは言えないだろう。もしそれが言えてしまうのなら、片思いを書いた小説はすべて「恋愛小説」ではないことになってしまう。


「木漏れ日に泳ぐ魚」もまた、心を通わせていない恋人(と、あえて書きます)の物語でした。

 彼らはある殺人事件に関わったことによって、互いが如何に心を通わせていなかったか、を理解していきます。


 視点は、男の視点と女の視点が繰り返されて行きます。

 途中から分かってきますが、「木漏れ日に泳ぐ魚」は女の視点「私(アキ)」が主人公です。

 読んだ読者の方はの八割は頷いてくれる内容だと思います。


 理由は単純で、彼女だけが自分を見つめ大人になったからです。

 彼女は学生時代、嫉妬や疑惑など別世界の侮蔑の対象でしかないと思っていましたが、彼(千浩)と共に暮らすことで変わります。

 それを表現する時の文章には鬼気迫るものがありました。


 ――繰り返し執拗に押し寄せて足元を洗う波に足がもつれて歩けず、幾度も砂に足を取られて転んだ。いつまでも綺麗なままで、決して汚すことなどないと思っていたスカートの裾が、砂と海水にまみれたことに呆然としたのだ。

 今の私は、もう海の中にいる。


 女性の成熟の一つがここにはしっかりと描かれています。

 海の中にいる自覚。

 自分の中に綺麗なだけの感情はなく、他人に対する嫉妬や疑惑も抱えている。その上で、彼女は自分が誰とも心を通わせてこなかったのだと気付きます。


 本文の言葉を借りれば、「しかし、私の愛は、実際には存在しないことになっている愛なのだ」です。

 そして、それを知ったからこそ、彼女は最後の最後で前を向きました。

 ノルウェイの森のワタナベトオルのように失われたものだけに目を向けませんでした。


 これを単純に男と女の違いとまとめることは出来ます。

 というか、木漏れ日に泳ぐ魚を読んだ後に、男はどうすれば前向きに生きていけるんですか? と素朴に感じてしまいました。


 木漏れ日に泳ぐ魚で「私(アキ)」は海の中にいる、と自覚します。

 続いて、「僕(千浩)」は自分が暴力的な人間であると自覚する必要がありました。

 海の比喩を当て嵌めるなら、彼は間違いなく山の中にいます。

 しかし、それを彼は最後まで自覚できずに物語は終わります。


 深読みすれば、木漏れ日に泳ぐ魚のラストシーンは私(アキ)が僕(千浩)の暴力性を埋めた(隠した)とも取れます。

 けれど、そうするべきは僕(千浩)自身であって、私(アキ)に代わってもらってはいけなかった。

 男の子は成長しなかった。

 いや、成長できなかった。


 もしかすると、それこそが山の中にいる意味に繋がるのかも知れません。

 海とは違い、生い茂った木々に視界を遮られ、ふとした拍子に崖にぶつかる。

 少し下を見ながら、道を確認しながらでないと進めない世界。


 そういえば、本谷有希子「異類婚姻譚」の夫も山に入ると生き生きとするシーンがありました。

「男の子と山」は一つ、重要なキーワードなのかも知れません。

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