85 島本理生「Red」恋愛小説に潜む、迂闊で誠実の罪。

 5月2日の話をしようかと思っていました。

 前回が1日の話だったので。


 けれど、書いているうちに面白くない気がしてきました。

 時々、そういうことがあります。順番的に書くべきものは分かっているのだけれど、書いてみて想定していたものとは違うと気づきます。

 こういう時、僕は途方に暮れます。


 自分が書こうとしたことは、その時点では面白いと思っているけれど、いざ形にすると面白くない。

 どうして面白くないのか、と考えてみると、今回に関して言えば結論が既に決まっている内容だからでした。発展性が乏しい、知っていることをただ羅列するだけ。そこには考える余地が含まれていません。

 その余地の幅が狭いと僕は面白みを感じられなくなります。


 そんな訳で、今回は僕がまだ知らないもの、具体的には今読んでいる小説(結論を知らない)、島本理生の「Red」について書きたいと思います。

 島本理生と言えば、作家の西加奈子に


 ――「もう二度と、恋愛小説は書かない。」

 この世にこんな凄まじい恋愛小説があるのなら、私は書けない、書く必要はない。そう思ってしまった。


 と言わしめるほど、「恋愛小説」に特化した作家と言って良いでしょう。

 その「恋愛小説」の範疇に全てが収まるゆえか、島本理生の作品は何度も芥川賞の候補に上がりながら受賞せず、2018年に「ファーストラブ」で直木賞を受賞しました。

 ちなみに今回、僕が読んでいる「Red」は島清恋愛文学賞を2014年に受賞しています。

 島本理生がデビューしたのは2001年ですから、十分中堅作家と言えるキャリアです。10年近く一貫して、手を変え品を変え(芥川賞の候補に入り、直木賞の候補に入り)恋愛小説を書いて行く作家は、それだけで稀有な存在です。


 今回、「Red」を読みながら僕が思ったのは恋愛について書く、ということは「異性」を書くことに直結している、です。

 島本理生は女性ですので「異性」は「男性」です。

 恋愛というテーマを扱いながら島本理生の目から見える男性の弱さ、魅力、恐さが赤裸々に語られています。

 そして、それは翻って女性という存在を少々過剰に暴きます。


 恋は人を暴く。

 と書いたのは江國佳織だと記憶していますが、島本理生が暴くものは女性であり、生活に直結した社会でもありました。

「Red」は旧来の結婚観や母親である圧力を、生々しく描きます。それを説明する為に「Red」のあらすじを説明いたします。


 ――夫の両親と同居する塔子は、可愛い娘がいて姑とも仲がよく、恵まれた環境にいるはずだった。だが、かつての恋人との偶然の再会が塔子を目覚めさせる。胸を突くような彼の問いに、仕舞い込んでいた不満や疑問がひとつ、またひとつと姿を現し、快楽の世界へも引き寄せられていく。上手くいかないのは、セックスだけだったのに――。


「Red」のテーマは「夫の両親と同居」「母親としての自分」「かつての恋人(不倫関係)」「セックスレス」でしょうか。

 読んでいてまずぶつかるのは、夫に対する不快感です。


 この不快感は作られたものではなく、現実に直結したものでした。

「Red」の夫はとてもリアルです。傍から見れば「イケメンで高給取り」の男性で、塔子(妻)から見れば「すごく子供っぽいところもあるし迂闊だけど、その分、誠実」です。

 夫は鈍感で素直だと繰り返し語られます。


 すると、何が起こるかと言えば、少々大袈裟かも知れませんが「Red」の夫は日本で理想とされる保守的な男性像に、どっぷりとコミットしているように感じてきます。

 こと日本において理想とされる昔ながらの(由緒正しい?)結婚観の殆どが現代においては成立し得ないものとなっているように僕は思います。

 それに関して、丸谷才一が「たった一人の反乱(1972年)」に「こわれた茶碗」と表現しています。


 ――この制度(結婚制度)にいろいろ具合の悪いところがあるのは、たいていの人が気がついているでしょう。でも、差し当たって代案がない。そこでやむを得ずつづけている。


 やむを得ず、という部分が重要なんじゃないか、と僕は思っています。

 結婚制度の具合の悪いところ(欠点)を鈍感さで、あるいは純粋とか誠実という言葉で誤魔化して、良い物、正しい制度と捉えると、実はとても大切なものを見失うんじゃないか。

 なんて、僕が言っても仕方がないことですが、考えれば考えるほど、そういった結論に行きつきます。


「Red」の夫はあまりにも無防備に結婚という制度を信じ過ぎているし、疑わなさ過ぎている、それが僕の考えです。

 一歩間違えれば、僕もそうなっていたという実感があります。

 変な言い方ですが、環境が違えば僕は「Red」の夫のように自分が生きる社会を疑わず生きたはずです。

 それは見方によっては非常に幸せな状態だとも言えますし、愚かだとも言えます。


 何も疑わない愚かさと何もかもを疑ってしまう愚かさ、どちらも同じ穴のムジナです。

 ただ、何も疑わない愚かさは時々無意識に他人を傷つけ、なぜ相手が傷ついたか、あるいは傷ついたかさえ分からない、という立場に立たされることがあります。

 何も疑わないのですから、その行動に躊躇もありません。


 躊躇なく正しいことをすればするほど本人は傷つかないのだけれど、周囲が傷つき苦しむ、ということがあります。

 理不尽に思えますが、あります。

 それは丁度、村上春樹が言った「壁と卵」に通じる考えです。

「壁と卵」は社会(システム)と個人の比喩です。

 何も疑わずに正しいことをする人間は「壁(システム)」側の人間です。

 村上春樹は「どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます」と言います。


「Red」の話に戻りましょう。

 主人公の塔子は幾つもの壁にぶつかり傷つき、苦しみます。

 その姿を前に思うのは、僕もまた何か間違えれば塔子を傷つける側に立つのかも知れない、ということでした。

 どうしても壁の側、塔子を傷つける側に立たなければならなくなった時、怯えながら正しいことをしたいと思います。

 そんな時は来なければ良いと真剣に願ってはいますが。

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