86 幻冬舎のあれこれは置いて、勧めたい「こわい」小説。

 ふと読み返していて思ったのですが、僕は「人間にとって「純粋」と「誠実」こそ最高のものである。」という話を少し前に書いていました。

 その上で、前回は「迂闊だけど、その分、誠実」な人間を否定しました。


 純粋で誠実を最高としながら、迂闊で誠実な人間は否定する。

 それはやっぱりおかしい気がして、考えてみました。

 僕が否定したのは「迂闊」という点でした。どれだけ純粋で誠実な人間だったとしても、迂闊な人間を僕はどうしたって否定的に感じます。


 もちろん、迂闊さにも程度はあります。

 僕が勝手に許せないと感じる迂闊さは他人を傷つけても平気、というものです。傷つけるにしても、せめて自覚的に傷つけるべきだろう、が僕の結論です。

 その結果、「人間らしいなにかを「喪失」する。」にしてもです。


 迂闊であれば、もしかするとその喪失に気付かずに済むのかも知れません。

 人間らしさを保ったまま、つまりは自分の人間らしさを無傷で抱え込んだまま、社会で生きられるのかも知れません。

 けれど、その結果、迂闊に周囲の人間を傷つけて「純粋」と「誠実」な顔をするのであれば、僕はそれを批判しますし、絶対に否定します。


 丁度、それは少し前に起った幻冬舎のあれこれに近い感覚のように感じます(突然、話題に出して申し訳ないですが)。

 僕はここ二週間ほど、津原泰水と豊崎由美のツイッターのアカウント通知をオンにし、常に彼らの呟きを追っていました。


 何があったかは、あらゆる人が言及している以上なにも書くつもりはありませんが、そこにも人を「純粋」と「誠実」な名の下に傷つける行為が見受けられました。

 僕は前回も書きましたが「壁と卵」で言えば、卵側に立ちたいと思っています。壁側に立たざる負えない時が来たとしても、怯えながら、注意深く正しいことをしたいと願っています。

 そして、今回の幻冬舎のあれこれに対し、悪いものが何かをあげつらうことは簡単にできるように思います。


 問題の本質は一つです。

 その一点が間違っているだけで、幻冬舎という「壁」そのものが間違っている訳ではありません。

 少なくとも僕は幻冬舎の優れた本を幾つも読んできました。

 それは例えば、吉田修一の「パレード」です。


 僕が初めて手に取った吉田修一の本でした。十九歳か二十歳頃に、学校の先生から勧められました。

 夢中で読んだのを覚えています。

 ちなみに、その先生からは中村文則の「掏摸」も勧められました。

 当時はまだ文藝の雑誌に載っていた掏摸を雑誌ごと渡されて読み、これまた引き込まれました。


 僕の十代の終わり、もしくは二十代の始まりのベストを選ぶとすれば「パレード」か「掏摸」をあげます。

 それは専門学校時代の読書とまとめても良いかも知れません。


 ちなみに、パレードは2010年に映画も公開されました。

 監督は行定勲で「GO(原作、金城一紀)」や「きょうのできごと(原作、柴崎友香)」や「世界の中心で、愛をさけぶ(原作、片山恭一)などを手掛けていて、原作の空気感や色みたいなものをちゃんと映像にできる人だと個人的に思っています。

 今回ウィキペディアで調べたら、岩井俊二の助監督をしていたとあって、「Love Letter」に「スワロウテイル」にも関わっていた人と知って妙に納得しました。

 岩井俊二を貪り見続ける時期が僕にはありましたが、それについてはまた別の機会に譲って「パレード」について書きたいと思います。


 映画のパレードは少し独特な空気を孕んでいます。

 その空気を作り出している一つにBGMがあります。パレードは見てみると分かるのですが、殆どBGMが流れない映画です。

 シーンの繋ぎ合わせによって、BGMがないことに対する違和感はないのですが、それ故に重要なシーンで流れ出す不穏なBGMは視聴者を不安にさせます。


 よく分からない「何か」が、潜んでいるような不安。

 それがパレードの最後に剥き出しになった時、「こわい(「パレード」解説、川上弘美より)」と感じます。最後の「こわい」こそ、パレードという作品の根幹となっています。


 当然、原作の小説もその「こわい」は健在です。

 というより、小説を先に読んだ人間からすれば、ラストのあの「こわい」をどの様に映像にするのか、まったく分かりませんでした。

 映像化不可能とまでは言いませんが、小説で感じる「こわい」を映画では感じられないんじゃないかな? と僕は勝手に考えていました。

 けれど、映画は小説と遜色ない「こわい」をラストに作り上げていました。


 もちろん、と言うと変ですが、小説を繰り返し5回近く読んでいた僕からすれば、よく出来た映画でも原作の方が好きです。

 それは間違いありません。

 ただ、映画も素晴しい出来であることも言及せずにはいられない、そういう作品でした。吉田修一という作家はある意味、変な位置にいる人で、彼の原作で作られる映画は恐ろしいくらいの熱量で作られ傑作と言って良いものになります。

 少なくとも「悪人」と「怒り」は凄まじいです(「さよなら渓谷」も凄かった)。

 その凄まじい映画の総合芸術を前にしても尚、原作の方が凄いし重要と言わしめてしまうのが、吉田修一なんです。


 だから、と言うのも変ですが、幻冬舎の「パレード」を語ろうとする時、映画についても言及したくなってしまいました。

 その上で、もっとも重要なのは川上弘美の解説だと僕は思っています。

 川上弘美の解説は以下のような内容です。


 ――こわい小説だ。

 あんまりこわいので、どうしようどうしようどうしようとおたおたしているうちに、結局あわせて四回も読み返してしまった。

 

(中略)


 一回めに読んだときは、最終章が、とにかく、こわかった。

 けれど二回めに読んだときは、最初から、ものすごくこわかった。

 三回めは、最後まであまりこわくなくて、けれどそれは全体の構造をすでに知っているから、という理由からではなく――それならば二回めのときだって知っていたのだし――こわいと思わないようにしよう、というわたし自身のおもんぱかりがあったのかもしれない。それで、本を閉じるまでこわくなかったのだけれど、結局はその翌日、揺り返しがくるように、やっぱりこわさがやってきた。

 四回めのときは、最初とは正反対に、最後の章はぜんぜんこわくなかったし、読みおわってからもこわくなかった。けれど、四章が終わるまでのところで、前後の脈略なく、たとえば風邪で高熱が出る前に体が間欠的にぶるっと震えるような感じで、何行かの文章を読む間だけ、突然こわさが襲ってきたりした。



 僕は本当に最後の最後が底なしに「こわい」と思いました。

 けれど、二回めを読むと最初からこわいの? と思って、読んで、滅茶苦茶こわくなりました。それは映画も同様でした。


 映画を見た後に冒頭に戻った時、テレビのニュースを見る杉本良介(小出恵介)の表情で、もう僕はダメでした。

 吉田修一のパレードが名作であることは間違いありませんが、その文庫版の解説に川上弘美を起用した幻冬舎を僕は最高だと思います。

 それが幻冬舎の功績なのか、どうかは分かりません。


 ただ、今回の騒動よって、幻冬舎のことを嫌いになりつつある自分がいたので、「いや、そうは言ってもパレードを出版した出版社だぜ?」と改めて実感する為に、今回の文章を書きました。

 最後にパレードの視点人物について書かせてください。


 視点人物は5名で、小説の章も各自の視点の5章構成。

 人物は、大学生の杉本良介、人気俳優と熱愛中の大垣内琴美、イラストレーターの相馬未来、夜のお仕事勤務の小窪サトル、映画配給会社勤務の井原直輝です。

 日々生きていく上で僕は、この5人を思い出すことがあります。

 そして、時々彼らのように振る舞ってしまう瞬間があります。


 血肉になる読書というのがあるとすれば、「パレード」は間違いなく、僕の血肉となっています。

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