73 祖母の死を母が正直に語る時、僕が思うこと。

 祖母が最後に書き残したのは「お墓へ行ってきます。 母より」でした。それは僕から見た母への書き置きでした。

 祖母が亡くなったのは一月三十日と訊きました。正確には二十九日の夕方に裏山にあるお墓へのお参りをしようとし、その途中で倒れて亡くなりました。


 母が二十九日の午前中に訪れて作ったお弁当は半分食べられていて、ヘルパーさんが運んだ夕食には手はつけられていなかったそうです。

 祖母が発見されたのは三十日のお昼過ぎ。お風呂へ連れていくヘルパーさんが家を訪ね、祖母がいないと気付き、母に連絡を入れました。

 母は家へ向かい、裏山へ続くコンクリートに倒れた祖母を発見しました。その時点で手遅れだったそうです。母は三人の兄弟に連絡を入れました。

 長男と次男。

 そして、祖母と一緒に住んでいた母の弟。


 彼は「おれ、(二十九日の夜)家にいたのに」と後悔の念を呟いたそうです。おそらく母の弟(僕から見れば叔父)が帰ってきたのは、夜遅くだったのでしょう。それは母にも同様の後悔を感じさせました。

 祖母が一月の終わりにお墓へ参りたいと思っているのを、母は知っていました。二十九日にも実際、祖母は母へお墓へ参りたいと伝えていたそうです。


 そこで(二十九日に)祖母をお墓に連れて行っていれば、というのが母の後悔でした。が、一年前に祖母が倒れてから、母は仕事と家事と祖母の介護が当たり前の日常になっていて、職場で過呼吸で倒れたのも一回や二回ではありませんでした。

 疲れていた。

 母の切実で当然の主張が祖母への死に対する後悔を作り出しました。


 火葬の前、冷たくなった祖母の身体が家に横たわっていた時、母は人目を忍んで何度も泣いていました。それを見て、弟も泣いていました。

「母さんが写真が残るのが嫌だって、言っていたの分かるわ」

 と弟は祖母の冷たくなった身体と最後に残した書き置きを見て、言いました。

 分かる、と僕は小さく答えました。


 母は火葬場へ運ぶ車に祖母が乗せられるのも直視できず、顔を伏せて泣いているのが、視界の隅に映りました。車が家を出て行くのを見送る時、僕は少し不思議な気持ちになりました。

 僕と弟は本当にお婆ちゃん子でした。遊びに行くとすれば祖母の家で、大きな家で遊びまわったり、近所の川を見に行ったりして小学時代は過ごしました。

 中学校に進学した頃に祖母の家に置く自転車を買ってもらい、その自転車に乗って古本屋を巡りました。当時の祖母の家の付近には、恐ろしいことに古本屋と本屋が七件はあって、その全てをまわっていました。

 祖母の家で遊んだ帰り母が車で迎えに来てくれて、それに乗って実家に戻るのですが、祖母は庭まで出て僕らを毎回、見送ってくれました。


 けれど、最後の最後、僕らは祖母の身体が乗った車を庭から見送りました。

 祖母はこんな光景をずっと見て来たんだなぁ、と思いました。それは、どこか淋しい光景でした。

 車がゆっくりと離れ、小さくなっていくのを前に、何を考えれば良いのか分かりませんでした。ただ、僕はまだ祖母の死の後、泣いていないな、と冷めた気持ちになりました。

 僕はずっと僕ではない誰かを観察していたし、特別な扱われ方をされない為に祖母の死を知らされた日の夜の職場の飲み会にも参加しました。

 祖母の死を特別なものとして、僕は捉えないようにしていました。

 それは何でだろう?


 多分、それは以下のようなことでした。

 僕は祖母とは遠い場所で暮していて、介護や痴呆の大変さを知らず日々を過ごしてきました。祖母との美しく幸せな記憶だけが僕の中にあります。

 祖母が生きていた日常を知らずに、後悔も特別も感じるべきではない。少なくとも火葬前の、あの場で悲しみに暮れるのは祖母の周りに生きていた人たちで、僕ではない。

 そういう言い方は、僕の周りにいる色んな人を怒らせるものだと思います。けれど、その時の感じたことを正直に書けば、こうなります。


 人が何か一つの動かしがたい真実、出来事を前にした時、正直な本音が倫理に反することがあります。周囲の人間、社会的に正しくあろうとする人から見れば、指を刺されて間違っている、と言われるようなことを感じることが、僕たちにはあります。

 少なくとも、僕が生きてきた二十八年という時間の中で、そいう場面にしばしば遭遇してきました。例えば、時々話に出てくる倉木さとし。例えば、二十三、四歳の頃の弟。

 例えば、今回の母親。


 母は祖母の四十九日の前日、僕と二人になった時、

「母さん(祖母)は、わたしの為にこの一年を生きてくれたんだと思うの」

 と言いました。


 それだけ聞けば、批判されても仕方がない発言に思えました。

 母が、その後に続けた話は、納得のできるものでした。少なくとも僕は。


「例えば、一年前に母さん(僕からすれば祖母)が亡くなっていたら、すごく後悔したと思うの。もちろん、今回のことで後悔がない訳じゃないんだよ。けど、一年前、母さんが倒れて亡くなっていたら……、今よりもずっと混乱していたし、戸惑っていた。倒れて、病院で治療して、家に戻って来れて、ヘルパーさんの力を借りて介護もして、そういう時間を使って、母さんが亡くなるっていう事実を受け入れる為の準備をさせてもらった気がするのよ」


 分かる、と思いましたし、だからなのか、と納得する気持ちになりました。僕は祖母の死を聞いた時、目に見えた動揺はしませんでした。動揺したのはむしろ、一年前、祖母が倒れたと連絡を受けた時でした。

 祖母が家に戻れる、というタイミングで、僕は婆ちゃん家に行き、家族みんなで鍋を食べました。その時、祖母の口ぶりがしっかりとしていて安心したのを覚えています。

 母は更に続けました。


「母さん(祖母)は、わたしたちの為に、ああいう死に方をしてくれた気がするの」

 母は変わらないトーンで続けました。

「もし、お墓のお参りから帰ってきて、家で倒れて、息はあるけど、意識はないっ

て状態になったら、わたしは苦しめず逝かせてあげて、って思うの。けど、兄ちゃんたちは、息があるなら、その間だけでも生きて欲しいって治療を続ける判断をする。その時、兄ちゃんたちとわたしの間には確実に亀裂が入るし、それが修復されるのにも時間が掛かる。確実に前の葬儀のような空気では決してなかった」


 それも、やっぱり分かる、と思います。

 少なくとも僕は母の兄側の人間の考えをしています。息があって、意識がなかったとしても、生きていてくれるなら、そして、それが治療によって続くのなら、治療を続けることを選択します。

 けれど、その選択の裏には、治療を続けないことで他人の命を終わらせる責任を負いたくない、という弱さがあります。

 その弱さを僕も、母の兄たちも克服できません。


「だから、母さんが亡くなった時、後悔はもちろんあるけど、これで良かったんだと、思うの」


 母は常識的な人間です。

 今回、語ったようなことを僕以外には、おそらく話していないのでしょう。

 他人に話せば批判されたり、勘違いされることを母は理解しているようでした(少なくとも父には話していないでしょう)。

 けれど、変な話ですが、母は僕だけは祖母に対する想いを批判せずに聞く人間だと判断したようでした。

 実際、僕は批判をしませんでしたし(勘違いはしているかも知れませんが)、この母にして僕はあり得るんだな、とさえ思いました。


 生きていく人間のあたり前の姿。

 前回で、引用した佐伯一麦の言葉ですが、その「あたり前の姿」が祖母について語る母にはあったように僕は感じました。

 その為、今回少し長くなりましたが、祖母の四十九日のことを書かせていただきました。

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