72 生きていく人間のあたり前の姿に傷つき、救われる。

「もうこれ以上、あたしや子供たちのことを書くんだったら、離婚して一人でやってください。お願いします」

 と顔を引きつらせて言った妻の台詞を彼は思い出す。「どこか遠い土地でやり直させてください、あたしたちだけで。あなたがいなくても大丈夫、みんなあたしたちに同情してくれるもの。あなたが望みどおりに作家になれたのも、あたしたちがモデルになって我慢してあげたからでしょう。

 だから、今度は、あなたがあたしたちの望みをかなえてくれる番だわ。あなたには、そうする義務があるはずよ」


 そう妻に告げられたのは、家族が前の家に住んでいた頃、彼が小説の新人賞をもらった直後のことだった。彼が書いた小説の内容を、妻は母親から電話で知らされたのだ。


(やはりそれは違う)


 と彼は心の中で呟いた。それは、何度も繰り返してきた自問自答だった。


(たとえ、自分たち夫婦の諍いや、子供たちの病気のことを書いたとしても、それは生きていく人間のあたり前の姿だと思っているからだ。

 確かに自分たちは、未熟な者同士の諍いの果てに、妻がガス栓を捻って始まった夫婦だったが、それを克服して生きて来たことを書き記すことは恥知らずでも何でもない。電気工事の仕事ともに家族を生かしてきた、その自分の仕事に誇りを持ってきたし、これからだってずっとそうだ)


                  佐伯一麦「木の一族」より。


 妻の主張は至極ごもっともだと思いますし、佐伯一麦の思う「生きていく人間のあたり前の姿」という部分にも僕は同意します。

 ただ、やっぱり「あたり前の姿」というのは醜悪で、目を背けたいものです。とくにその当事者である人間からすれば。

 どんなに佐伯一麦の中で「克服し」「誇りを持ってきた」としても、モデルにさせられただけの妻からすれば、彼のそういう傲慢な態度には腹に据えかねるものがあってしかるべきです。


 僕が初めて佐伯一麦を読んだのは三島由紀夫賞をとった「ア・ルース・ボーイ」でした。友人からの勧めで読みました。君の作風に似ているから、と。

 当時の僕は首をひねりましたが、似ていたのでしょう。

 今から考えれば友人の言いたいことは分かります。最初の最初、僕は私小説的なものを書きたいと思っていました。ただ、後になって分かったことですが、僕は私小説に惹かれはするものの、自分で書く場合は体験していないことを言葉にしたい人間でした。


 ちなみにある友人も「ア・ルース・ボーイ」を読み、彼の感想は「最強の童貞卒業小説」でした。分かる。

「ア・ルース・ボーイ」の童貞を卒業するシーンはとても良いです。

 意外と童貞の卒業シーンが描かれる小説を僕は読んできていなくて、あえて他を挙げるなら藤沢周の「奇蹟のようなこと」ですかね?

 あ、藤沢周!

 情けないはずの男が異常に恰好良く読める文体と台詞回しの天才。芥川賞を受賞した「ブエノスアイレス午前零時」のラストは格好良すぎて、鳥肌ものでした。

 その辺については、また後日書きます。


 佐伯一麦も藤沢周と同様、情けない男が主人公です。

 というか、私小説なので佐伯一麦本人ですが。

 問題は藤沢周は創作であり、佐伯一麦は自分の体験である、という点です。「ア・ルース・ボーイ」は佐伯一麦が高校生の頃の話で、彼がデビューした「木を接ぐ」は社会人となって東京に出てきてからの話でした。

 初期作品集として講談社文芸文庫に収録されていたのは、デビュー作の「木を接ぐ」、「端午」「ショート・サーキット」「木の一族」です。それらを佐伯一麦は


 ――処女作である「木を接ぐ」から「木の一族」まで、ちょうど十年かけて、家族の成り立ちから解体までを描いたことになる、と少々苦々しい感慨とともに改めて気付かされました。


 と最後の「著者から読者へ」で書きます。

 この初期作品集を経て、佐伯一麦は最強の童貞卒業小説(友人いわく)「ア・ルース・ボーイ」を書きます。

 家族の解体まで描いた後に、佐伯一麦は自分の青春時代を書いています。


 繰り返しになりますが、僕は「ア・ルース・ボーイ」から読みました。

 その為、技術的な面から言えば、間違いなく「ア・ルース・ボーイ」は素晴しい。三島由紀夫賞を取るのも頷けます。

 その後に僕は「木を接ぐ」を含む、初期作品集を読みました。発表された順番からすれば、先に発表されていた作品群なのですが、それが私小説というだけで、つまり主人公が佐伯一麦だと言うだけで、まったく違和感なく読むことができました。

 どころか、「ア・ルース・ボーイ」の続きとして「木を接ぐ」から始まる「家族の成り立ちから解体までを」読みました。


 冒頭の妻の言葉は「木の一族」、初期作品集の最後の一編です。解体と本人が書いている通り、佐伯一麦はこの後、妻と子供と離れて暮らします。

 佐伯一麦作品を全て読破している訳ではないので、確かなことは言えませんが、彼の作品内でその後に妻の話が出て来たものは読んだことがありません。


 そういえば、佐伯一麦がキャバ嬢と旅行へ行く話もあって、購入はしたものの気づいたら友人に貸していて、それがまだ返ってきていません。彼は今、山口県? 流石にもう持ってないだろうなぁ。


 話を戻します。

 冒頭の妻の発言に僕は同意しつつ、佐伯一麦が「木を接ぐ」からの一連の「家族の成り立ちから解体」まで書いてくれたことに僕は感謝しています。

 それによって佐伯一麦の妻や子供が深く傷ついていたとしてもです。

 僕は佐伯一麦の小説によって、確かに「生きていく人間のあたり前の姿」を見たし、いつか僕が誰かと生きるとなった時に、あるいは文学を本気で志す時、「恥知らずでも」それを克服して生きる一つの可能性を知りました。

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