70 「平成の30冊」に含まれない村上龍の影響。

 気づけば70まできました。

 毎日更新を始めたのが2月23日の「45 平成の終わり、時代と一体化した人。」でしたので、25回毎日更新をしていたようです。

 ふむ。

 あと、5回は毎日更新をしたいなぁ。と言いつつ、二回くらいしか続かなかったら笑えるオチだなぁ。

 毎日更新をすることで、「カウボーイ・ビバップ」の話もできましたし、あと他に今だからできることってなんだろう? それも同時に考えてみたいと思います。


 さて今回は2019年3月7日に発表された【朝日新聞「平成の30冊」を発表】について書きます。

 この30冊はランキング形式になっていて、ツイッターやネットニュースなどになっていたので見かけた方も多いと思います。簡単に紹介させてください。


 1位「1Q84」村上春樹

 2位「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ、土屋政雄訳

 3位「告白」町田康

 4位「火車」宮部みゆき

 4位「OUT」桐野夏生

 4位「観光客の哲学」東浩紀

 7位「銃・病原菌・鉄」ジャレド・ダイアモンド

 8位「博士の愛した数式」小川洋子

 9位「<民主>と<愛国>」小熊英二

 10位「ねじまき鳥クロニクル」村上春樹


 この記事の「1Q84」の紹介文で、コラムリストの堀井憲一郎の言葉が載っており「平成の時代は『村上春樹の時代』でもあった」と書いています。

 確かに今回の「平成の30冊」の1位と10位が村上春樹の作品で、それに関して村上春樹におこなった短いインタビューも同時に掲載されていました。


 僕は以前、1995年から2020年までを大澤真幸は「不可能性の時代」と言い、それを受け継いで東浩紀は「動物の時代」と名付けた、と書きました。


 そこにきて、更に『村上春樹の時代』?


 どうにも僕は「時代」という言葉を便利に使い過ぎている部分があります。

 時代という括りにすることで、物事を語り易くなりますが、そうすることで見落としてしまうものが間違いなくあります。

 なので今回は30位内に入っていない作家と作品について書きたいと思います。


 村上春樹の時代。

 という単語を前にした時に浮かんだのは、ダブル村上と呼ばれた村上龍でした。彼も一時期の時代を担っていました。

 しかし、村上龍の時代はいつの間にか煙草の煙のように空に溶けて行きました。デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」や「コインロッカー・ベイビーズ」の凄まじさに僕は圧倒されましたし、多くの作家が村上龍に影響を受けたのを知っています。例えば、先程の「ブルー」と「コインロッカー」の新装版の解説は綿矢りさと金原ひとみが担当していました。彼女たちの解説は自分の主観の混じったものでしたが、それ故に村上龍の存在の大きさも感じられました。


 個人的に村上龍の影響を剥き出しに受けた新人作家として、天埜裕文を上げたいです。天埜裕文は村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」だけを読んで小説を書き、「灰色猫のフィルム」ですばる文学賞を受賞しデビューしました。

 当時のすばる文学賞は手書き原稿の受付はしていませんでした。

 しかし、天埜裕文はそれを知らずに携帯のメモ機能を使って書いた小説を原稿用紙に書き写して投稿。本来であれば選考外のはずが、編集部の目に止まり受賞を果たしました。


 この辺の情報は昔の友人が喋っていたことをもとに書いている為、一部間違いがあるかも知れません。

 ただ、僕が注目したいのは天埜裕文は「コインロッカー・ベイビーズ」だけを読んで「灰色猫のフィルム」を書いた、という点です。「コインロッカー・ベイビーズ」は三人称で書かれた小説で、「灰色猫のフィルム」は一人称なんです。

 三人称(名前)と一人称(僕/私)の違いは、イコール文体(地の文)の違いを意味します。

 つまり、「灰色猫のフィルム」を読んでも「コインロッカー・ベイビーズ」の影響を感じないんです。むしろ村上龍のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」の印象の方が強いんです。一人称という共通点もある為かも知れませんが。

 けれど、あくまで天埜裕文は影響を受けた作品として「コインロッカー・ベイビーズ」の方をあげた。


 このズレを僕はとても面白い、と思い密かに第二の村上龍として天埜裕文に期待を寄せていたのですが、デビュー作が単行本になった後からは本を出版していません。

 すばるの雑誌でぽつぽつと作品を発表するのは見かけて、その度に買うのですが、評論対象になるのは新人小説月報に留まり、芥川賞や三島賞の候補に入ることもありません。

 そこまで考えて、僕が思うのは、ここに『村上龍の時代』の煙草の煙のような弱さが隠れているのかも知れません。


 村上龍のデビュー当時の作品群は、天才的と言って良いほどの文章の上手さと感性の豊かさ、世界をグロテスクにまた、美しく切り取る繊細さに圧倒され続けてきました。

 しかし、途中から、その感性のみの世界が繰り返されることで色褪せ、新鮮さを失わせることに読者は気づきます。村上龍はその頃から、膨大な資料を読み込むことで新しい世界(社会)を作り出そうとし始めます。

 個人的に、その最高傑作は「希望の国のエクソダス」です。

 帯には


 ――この国には何でもある。だが、希望だけがない。


 とあります。

 僕は「希望の国のエクソダス」に感動したし、後半の戦争がはじまった描写は今読んでも涙が出てきます。

 けれど、今ふと振り返ると、帯の通り「希望の国のエクソダス」には希望だけがありませんでした。それは内容だけではなく、村上龍文学にも言えることだったように感じます。


 自分の豊かな感性を核に書かれる小説は素晴しく、一作だけで全てを圧倒するだけの力があります。更に、そこには確かな才能があるから作品を書きつづけることも可能です。

 が、繰り返しますが、豊かな感性と才能は色褪せて、新鮮さを失っていきます。丁度、村上春樹がアーネスト・ヘミングウェイについて語る文章に、そういった部分が現れていたように思います。

 最後にこちらを引用して終わりたいと思います。

 

 ――それはやはり、ヘミングウェイという人が素材の中から力をえて、物語を書いていくタイプの作家であったからではなかったかと僕は推測します。おそらくはそのために、進んで戦争に参加したり(第一次大戦、スペイン内戦、第二次大戦)、アフリカで狩りをしたり、釣りをしてまわったり、闘牛にのめり込んだりといった生活を続けることになりました。常に外的な刺激を必要としたのでしょう。そういう生き方はひとつの伝説にはなりますが、年齢を重ねるにつれ、体験の与えてくれるダイナミズムは、やはり低下していきます。


 その後に村上春樹は、ヘミングウェイのようなダイナミックな体験が必要ない、という訳ではない、と続けます。ただ、小説はダイナミックな体験を持たない人でも書ける。

 むしろ、小さな体験からだって、人はびっくりするくらいの力を引き出すことができる、と言います。


 村上春樹の小説はつまり、このダイナミックではない小さな体験から、如何に大きく、人がびっくりするような力を示せるか、そこに核があるように思います。

 そう考えると、さきに挙げた村上龍、綿矢りさ、金原ひとみ、天埜裕文は、デビュー作を書く時、ダイナミックな体験(外的な刺激)が確かにありました。

 彼らの作品が今後、どういった場所へたどり着くのか、僕には予想することもできませんが、彼らの出発点となった作品が名作であることは十年、二十年経とうと変わらないことだけは分かります。

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