69 【後編】美しいアニメを握り潰す暴挙「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」論。

 最後です。

 にしても、僕はエッセイという名目でこの連載をしているのに、アニメ映画論とかやり始めて、読んでくれている人はいるのでしょうか?

 本当すみません、突然。

「カウボーイ・ビバップ」と「エヴァンゲリオン」を見ていないと殆ど理解できないんじゃないか? と思って正直、冷汗ものです。

 けれど、これが最後ですので。次からは、また一編で完結するエッセイに戻りますので、お付き合いいただいてる方は今回だけご容赦いただければ、と思います。


 前回、ヴィンセント・ボラージュが夢の世界から現実へ帰還する方法には二つある、と書きました。それはどちらも愛による帰還です。

 しかし、ヴィンセントがまず出会う女性、フェイ・ヴァレンタイは彼を愛することはできません。


 ならば、ヴィンセントを愛せたのは誰だったのか、これはとても単純です。映画を観れば、簡単に答えがでます。

 ヴィンセントを昔からよく知ると言う元同僚。エレクトラ・オヴィロです。

 ただし、その愛(エレクトラ)が届く為には、愛を知る男、スパイク・スピーゲルの存在が必要でした。「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」は見る角度を変えると、まるで夢の中(人類補完計画)で彷徨うヴィンセント・ボラージュの下へスパイク・スピーゲルが愛(エレクトラ)を運ぶまでの物語となります。


 そのエレクトラとヴィンセントの初顔合わせのシーンは映画の中盤、モノレールの中です。ヴィンセントはそこでエレクトラを撃ちます。

 当時のヴィンセントはエレクトラの姿は目に映っていません。少なくとも、そのような描写はありません。しかし、最後の最後、タワーでスパイクとやり合った後になるとヴィンセントはエレクトラの姿に気付きます。


 モノレールとタワー。

 その二つの違いは何か? あくまで僕の考えですが、それには男の子の成長が深く関わっているように、僕は思えます。

 男の子の成長とは何か?

 それは自分の欲しいものが何かを知ることです。それを最も深く描いた作品の例として、スクライドを挙げます。


 スクライドの最終話(26話)、カズマと劉邦の衝突によって、彼らは互いを理解し合うようなことはしません。ただ、同等の力でぶつかり、痛みの中で互いに自分との対話に入り、そこで自分の欲しているものに気付く。

 それが男の成長の一つの形です。

 カズマと劉邦のように、スパイクとヴィンセントはタワーの上で同等の力で戦い、それ故にヴィンセントは自分が欲していたもの、「愛」に気付きます。


 そして、それは同時に人類補完計画の中に取り残されたシンジくんの救出であり、アニメの快楽現象にたゆたうオタクたちへ差し出された救いの手でもありました。

 では最後の最後、愛に気付いたヴィンセントが出した答えとは何だったのか? 


「扉なんてどこにもなかったのだ」


 この世のものとは思えないほど美しい蝶が舞う世界の中で、ヴィンセントが辿り着いた答えに対し、スパイクは言います。

「初めから分かっていたははずだ」と。

 人類補完計画も、オタクの快楽現象も、実は最初から無かったものだ、とスパイクは言います。けれど、無いものは無かったとさえ言えないはずのものです。有るからこそ、無くなる訳であり、無かったと言える。

 気づけば、それは確かに「最初から」無かったものと言えます。

 しかし、気付かなければ、それは無いはずのものなのに、有りつづけるものとして存在してしまう。


 スパイクが以前は何も怖いものなどなかった、とエレクトラに語ります。しかし、ある女と出会い、死ぬことが怖くなった。ない、と思っていたものが、あった経験をスパイクはしています。

 故に、彼だけがヴィンセントに「あった」ものが最初から「無かった」と語ることができるのです。そして、それは日常を愛すフェイ・ヴァレンタインにはできないことでした。

 

 映画の最後は、スパイクの語りで終わります。


 ――そいつはただ一人ぼっちだっただけさ。自分以外の誰ともゲームを楽しめない。夢の中で生きているような、そんな男だった。


 冒頭の物言いとまったく同じ文言です。

 入口も出口もまったく一緒という映画もまた珍しいですが、同じ文言が繰り返される以上、そこには何かしらの意図があると考えるべきでしょう。

 では、その意図とはなんでしょうか?

 スパイクはエレクトラに向けて、ヴィンセントのことをこう言っています。


「アイツは俺と同じ匂いがするんだ。だから、会いたいんだ。アイツに」


 冒頭と最後の文言を加味すると、スパイク・スピーゲルもまた一人ぼっちだった頃があった。自分以外の誰ともゲームを楽しめず、夢の中で生きているような、そんな男だった時期があった。

 それは予想するに、スパイクが語る何も怖くなかった時期と重なるのではないか。一人ぼっちであるから、死ぬことなんか怖くなかった。


 けれど、一人の女性との出会いによって、スパイクは死ぬことが怖くなった。その理由は彼自身が一人ぼっちではなくなってしまったから。

 その一人ぼっちではない感覚は現在のスパイクにも脈々と続いています。何故なら、その女性は死んでしまったのではなく、どこかへ行ってしまった(少なくともエレクトラにはそう語ってしまっている)のだから。


 で、あるなら、この映画の主題は、一人ぼっちではないことを自覚しろ、と言うことができます。人類補完計画(オタクの快楽現象)から抜け出す為のキーワードもそれだと言えます。

 君は一人ぼっちではない。

 今は一人ぼっちで、自分以外の誰ともゲームを楽しめない、夢の中で生きているような状態だったとしても、君は、君たちはいつか、一人ぼっちではないことを自覚するのだ、と。

 スパイクはヴィンセントにそれを自覚させる為に、タワーまで追いかけて、彼の主催するパーティに参加した。そして、彼に唯一愛を差し出せるエレクトラを最後の最後に引き会わせることに成功したんです。


 こうして見ると、「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」はオタク救済映画として、最高の部類に属すると思います。この世のものとは思えない美しい蝶。それこそが、オタクの快楽現象だった訳で、それを最後の最後、スパイクは手で握りつぶしてしまいます。

 まるで、「書を捨て町へ出よ」と書の中で言ってしまうように、一人ぼっちでアニメなんて見てんじゃねーよ、とその美しいアニメを握り潰す暴挙こそが、「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」でした。

 

 ※今回の一連の文章は、2017年10月2日に保存されていたものです。あまりにも量が長すぎてエッセイに向かないな、と思っていたのですが、毎日更新をしている今なら、いけるかな? と思い掲載させていただきました。

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