68 【中編】美しいアニメを握り潰す暴挙「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」論。

 はい。

 では「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」についての続きを書きたと思います。

 前回のまとめてとして、映画で事件を起こす敵キャラクター、ヴィンセント・ボラージュは人類補完計画の中に取り残された碇シンジなのではないか? というのが僕の考えです。

 主人公スパイク・スピーゲルは劇場版の冒頭で以下のように語ります。


 ――そいつはただ一人ぼっちだっただけさ。自分以外の誰ともゲームを楽しめない。夢の中で生きているような、そんな男だった。 


 スパイクは間違いなく、ヴィンセントに向けて、そのように語ります。では夢の中、エヴァで言う人類補完計画から、どのようにすれば現実の回帰が可能だったのか、それについて書いていきます。


 そこには二つの可能性があったと、僕は考えます。

 どちらも愛による帰還です。ただし、その愛を差し出す人物が異なる為、二つの可能性がありました。

 では、一つ目の可能性を。


「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」をヴィンセント・ボラージュの視点から見ると、一つのボーイミーツガールものとして捉えることができます。ボーイ(男の子)はヴィンセント、そしてガール(女の子)はフェイ・ヴァレンタインです。

 天国の扉でヴィンセントが登場するシーンを目撃したのはフェイでした。

 そのシーンはヴィンセントとフェイが視線を合わせることで、互いを認識したように描かれます(少なくともフェイは認識し、それをスパイクたちに伝えます)。


 あえて、エヴァゲリオンで合わせるとすれば、フェイは惣流・アスカ・ラングレーです。シンジが最も理解できなかった女の子。そして、その作りは「カウボーイ・ビバップ 天国の扉」でも健在です。

 ヴィンセントとフェイの二度目の遭遇は、ナノマシン(生物兵器)が充満した部屋でした。普通の人間であるフェイはそれを吸うことで死に陥る環境です。

 そこにヴィンセントが現れ、自分の血をフェイに口移しで与えます。


 そのシーンはどこか「もののけ姫」のサンとアシタカを彷彿とさせます。ヴィンセントはフェイを生かし、世界がひっくり返っても(ナノマシンがばら撒かれた世界でも)生きられる術を与えます。

 そうした上で、「一緒に来るか?」と尋ねます(現実への回帰において、これにフェイが答えられる女だった場合、ヴィンセントは救われた、と僕は考えます。

 後にも書きますが、それは失敗に終わります)。


 この点はヴィンセントというキャラクターを掘り下げるのに、重要な部分ですので詳しく語ります。フェイに「一緒に来るか?」と尋ねる前に、彼は自分の生い立ちを正直に語ります。その上で、世界をひっくり返すようなナノマシンをばら撒くと言います。

 フェイはヴィンセントの物言いに対し、「狂ってる」と言います。

 それに対し、ヴィンセントは「正常と異常の境界線を誰が決める? 狂っているのは世界の方だ」と言った上で、「一緒に来るか?」と尋ねます。

 フェイの答えは「たった一人で生きていけば良いわ」です。

 当然の答えです。

 ヴィンセントもそれは予想することが出来た筈です。それでも、彼は一緒にくるか? と言わずにはおれなかったのだとすれば、それはどのような理由があるのか?


 ヴィンセントは「正常と異常の境界線を誰が決める?」と言いながら、フェイにとっての正常が世界側にあることを理解しています。つまり、ヴィンセントは多数決という民主的な物差しで言えば、自分が間違っていることを十分に理解しています。

 その上で、その物差しが狂った後の選択をフェイに任せます。まるで、人類補完計画で生き残ってしまったアスカのような立ち位置をフェイは背負わされてしまう訳です。

 ここで、ヴィンセントが起こそうとしたことは、つまり人類補完計画だった、と言うことも可能です。

 あるいは、それは「シン・ゴジラ」で東京に現れたゴジラと言っても構わないかも知れません。

 狂った世界への挑戦。

 ヴィンセントがしようとしたことは、人類補完計画的な世界を一つにすることでもあり、ゴジラ的な怒れる神なものでもあった。


 そして、パーティは相手が居てこそ始まると本編で語られるように、対立軸が存在して、世界への挑戦は成されます。

 エヴァンゲリオンで世界と対立したのはエヴァに乗る母親のいない子供たち、シン・ゴジラで世界と対立したのは矢口蘭堂率いる二世政治家たちです。

 では、ビバップは? 

 何も怖いものはなかったはずなのに、一人の女性と出会ったことで、死が怖いと思ったと語るスパイク・スピーゲル。つまり、愛を知ってしまった男です。


 しかし、それについてはまた後で語るとして、フェイ・ヴァレンタインに戻りましょう。フェイはヴィンセントによって傍観者としての役割を与えられました。

 それはスクライドで言う桐生水守の立場です。

 言い換えれば、スパイクとヴィンセントの対決を理解できない立場です。そして、それは映画の最後の最後まで変わりません。映画でのフェイの最後の台詞は、そういう意味ではとても印象的です。

 アスカのようなイヴ的な立ち位置を与えられ、その上で水守的、理解を放り出しても居る彼女は全てが収まった後、ジェット・ブラックに言います。


「雨上がりには虹が出るか……。ねぇ、馬でも見に行く?」


 虹のくだりは日常の帰還を意味します。

 事件の終結を理解した瞬間、雑踏な日常に彼女はいち早く足を踏み入れます。彼女が愛するものは特別なアダムとイヴ的な個人的なものではなく、博打などの何でもない誰もが体験できるものだった。

 彼女は最後の最後まで日常を愛し、特別に背を向け続けました。そんな彼女がヴィンセントを愛せたとは思えません。アスカがどこまで行ってもシンジを愛せなかったように、フェイもまたどこまで行ってもヴィンセントを愛せない。

 少なくともヴィンセントが敗れたと知った後に、馬を見に行こうとするフェイでは。

 ならば、ヴィンセントを愛せたのは誰だったのか?


 それについては、次回に書きたいと思います。

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