46 亀の甲羅の上で運ばれる美しい夢の時代。

 前回、前々回と個人的なことを書いてしまったなぁ、と思っていました。

 エッセイですし、その時々に考えたことを書こうと決めてはいるのですが、個人的過ぎたかも知れません。

 そんな感覚がありましたので、今回は僕とはまったく関係のない話題をさせていただければと思います。


 題材は押井守監督の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」です。調べて見ると、公開されたのが1984年2月11日に東宝系での公開でした。

 今が2019年だから、35年前の映画になります。


 どうして、そんな古い映画を引っぱり出してきたかと言うと、きっかけはラジオでした。僕は結構、深夜ラジオが好きで移動の際は基本的に録音したラジオを聴いています。

 その中で、菅田将暉のラジオで「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」が話題になっていました。

 記憶が正しければ一月最後の回だったと記憶しています。


 どういう形で「うる星やつら」が話題になったかと言うと、菅田将暉の交流のあるシンガーソングライター石崎ひゅーいと幼少期によく見ていた映画の話になったんだそうです。

 そこで、石崎が「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」をあげて、繰り返し見るほど好きだと語ったのだとか。

「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を見たことがなかった菅田将暉は軽い気持で見てみたんだそうです。


 彼の感想は「訳が分からん」でした。


 その後から、「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のあらすじを菅田将暉が語ろうとするのですが、まったく要領得ず、彼の話だけを聞いてビューティフル・ドリーマーがどういう映画か知るのは困難でした。

 けれど、菅田将暉も言っていますが、ビューティフル・ドリーマーはそういう映画だと言えます。

「訳が分からん」

 は、そういう意味で、とても的を得た感想です。


 今回、これを書く為に「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の予告ムービーをユーチューブで見たのですが、「え? だから、どういう話?」となってしまいました。

 見てもらうのが一番、早いのですが、あえて「訳が分からん」ビューティフル・ドリーマーのあらすじについて書いてみたいと思います。


 ビューティフル・ドリーマーの冒頭は文化祭の準備中の映像から始まります。そして、前半では、この文化祭準備の映像が何度も繰り返し描かれます。

 簡単に言えば、ビューティフル・ドリーマーは文化祭前日をひたすらループしている世界なんです。

 そして、それに気付く人間が現れて行動を起こすのが前半です。

 結果、町の外に(時間の輪から)出られないことを知ります。陸地からの脱出が無理なら、と飛行機を使って空からの脱出を試みます。すると、町そのものが亀の甲羅の上に乗って移動しているのを目撃します。


 話の下敷きには「浦島太郎」がある為に、前半ではその話が何度も挿話されます。

 竜宮城を目指す亀の甲羅の上で延々と楽しい祭りの前日がループしている。決して、楽しい本番(文化祭)がループしている訳ではない、という点が、この映画の肝です。


 亀の甲羅の上に町があると気づいた後から、町の住民が全て消えてしまいます。主人公たちと主人公の両親。

 それだけで世界が完全に閉じてしまいます。

 閉じた町の世界では食糧、電気、ガスは何者かの存在によって保証されています。町の外に出られないこと以外は自由です。

 そんな町の中で、主人公たちは遊び倒します。


 ここがまた、楽しげなんですね。

 そう、ここが重要なのかも知れません。

 ビューティフル・ドリーマーは楽しそうな映画なんです。けれど、その楽しそうな描写の裏には多くの犠牲があるし、楽しいだけの日常は決して続かない。

 起きる出来事は確かに「訳が分からん」と言われてしまう内容です。

 が、全編通して語られるテーマは普遍的なものです。

 だから、何度も繰り返して見たくなってしまう映画なんです。


 あれ、結局、訳が分からんけど、面白いよーというふわっとした結論に行きついてしまいました。

 仕方ないので、他人の力を借りたいと思います。


 美術家で美術評論家の黒瀬陽平という人がいます。

 彼いわく、ビューティフル・ドリーマーで閉じられた世界(町)は八十年代のオタク文化である、そうです。

 そして、そのオタク文化も戦後の日本で発生した文化(東浩紀的に言えば、小さな物語)である以上、結局、その閉じた世界は日本文化(大きな物語)そのものだった。

 というのが、黒瀬陽平の考えでした。


 ビューティフル・ドリーマーで閉じられた世界が八十年代のオタク文化(そして、日本文化)であるとします。すると、映画のその殆どが巨大な亀の甲羅の上(竜宮城へ行く間)で起きることを考えると、八十年代は移行期間としての自覚が強くあった時代だったのでしょう。

 我々はどこか(竜宮城?)へ行く途中なんだ、と。


 ふむ。

 その後に訪れる九十年代、ゼロ年代は八十年代の人間が夢想した世界とは遠く離れていたのではないか? と九十一年生まれの僕は考えますが、輝かしい未来へたどり着こうとした時代があった。

 と考えて思うのは今、僕らが立っている2019年もどこかへたどり着こうとしているはずだ、ということでした。

 八十年代の頃から比べると美しい夢を見るのは難しい時代になってしまいました。

 それでもせめて、悪夢ばかりではない、良い夢に目を向けたいと思います。


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