「僕と弟はお婆ちゃん子として育ってきました。それは僕らが育ち月日が経つごとに、婆ちゃんの腰が曲がっていき、一日の活動時間が短くなっていくのを目の当たりすることを意味しました。
そういう時間の積み重ねが母に起きている、という事実を寂しさとも違う感情として僕の中に沸き起こりました。」
このくだりに、郷倉四季さんの感性の繊細さを感じました。
長い時間をかけて、少しずつ変わっていったものが、ある日突然、大きく変化したものとして目に映る。それは、自分が成長したことであり、相手が老いたということであり、その現実を言葉にしようとすると、相手が近しい親しい人であった場合、切ない気持ちになるのだと思います。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
成長がいつしか老いになって、それがゆっくりと進行していく様はどうしても切ないものがあります。
なにか感じとっていただける部分があったこと、嬉しく思います。
ありがとうございます。
昔、有馬温泉まで歩いていきましたねー。遠かった気がします。
そして、結婚を不条理な偶然性とは良いですね。パートナーを選ぶには、より良い人物を探すことを放棄することが必要ですからね。たまたまその人が一番良いと思っただけ、という意味で不条理だと思っています。
僕ももう少し能天気に生きていきます。ほけーっとね。能天気すぎて周りが焦り始めますが、それも楽しいかもしれません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
どこから有馬温泉まで歩いたんですか!?
変な言い方ですが、結婚は互いに妥協する行為とも言えるのかも知れませんね。
良いですね!
周りが諦めだした頃に、あえて結婚しましょう。
僕もそれを狙います。笑
>結婚というのは、この人ではなくてもいいのにこの人と一緒になるという不条理な偶然性を引き受ける「気合」
すごく正鵠を射た表現だと思います。
自分も半年ほど前にその偶然性を引き受けましたが、正直ミスったかなと後悔も多く(笑)
正直、自分ひとりで没頭したい趣味(それこそ小説書くとか)がある人にとっては、偶然性を引き受けないほうがいいかなと思ったりもします(笑) なかなか、自分の時間を持ちづらくなるでしょうし。
作者からの返信
サンダルウッドさん、コメントありがとうございます。
あと、お祝いの言葉を伝えていなかったことに気づきました。
このような場で、また遅ればせながら、ご結婚おめでとうございます。
偶然性を引き受けるタイミングというのは選べないのかも知れませんね。
僕としては、自分ひとりで没頭したいこともありつつ、偶然性を引き受けていきたいとは思っているんですが、その部分の両立は難しいですね。
いつか僕が偶然性を引き受けた時は先輩として、アドバイスや相談に乗っていただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。