35 牡蠣フライについて考える。

 前回、村上春樹の短編小説の話を書いたので、次は雑文について。


 村上春樹は短編、長編小説以外にエッセイ、翻訳など多岐に渡った書き手の作家だけれど、その中で僕が最も好きなのは「雑文集」と一冊にまとめられた本です。

 その中にはデビュー作の「風の歌を聴け」の受賞の言葉や、ポールオースターの小説に関する書評だったり、読者からの質問に対する回答まで、ありとあらゆる文章がその雑文集に押し込められています。

 読み終えた後、本当にタイトル通りの本だな、と感じます。

 本の後ろには、


 ――すべての細部に村上春樹は宿る。


 とあります。


 細部に神は宿るをもじった文章である訳ですが、これは中々良いキャッチフレーズだなと思います。

 実際に村上春樹の文章を好んで読んできた読者としては確かに雑文集のどの文章を読んでも、村上春樹らしさを感じとってしまうのですから。


 僕は実際に顔を合わせて人と話す時は細部を放棄しているのですが、せめて文章の中でくらい細部の神様が宿れるだけの緻密さを持ちたいと願っています。

 そういう意味で村上春樹の「雑文集」は僕が書きたい、と恋い焦がれる文章のオンパレードです。どこを読んでも痺れます。

 例えば、以下のような文章です。


 ――そう、小説家とは世界中の牡蛎フライについて、どこまでも詳細に書きつづける人間のことである。自分とは何ぞや? そう思うまもなく(そんなことを考えている暇もなく)、僕らは牡蛎フライやメンチカツや海老コロッケについて文章を書きつづける。


 僕は、どこまでも牡蛎フライについて書きつづけることができるのかな?

 と少し真剣に考えてしまいます。

 そして、結論は書くことはできる(自分とは何ぞや? と考える暇もなく)。書きつづけることはまだできない、です。


 僕には足りないものがあります。

 それはとても具体的で、現実的な問題として僕の前にあります。僕の小説を読んでくれる人がいて、それを楽しんでくれる。

 と、最近自覚してより強く思います。

 村上春樹が「風の歌を聴け」でデビューした時の受賞の言葉で、


 ――四十歳になれば少しはましなものが書けるさ、と思い続けながら書いた。今でもそう思っている。


 と言います。


 牡蛎フライについて書き、メンチカツや海老コロッケについて僕は書きます。けれども、書きつづけられることはまだできません。

 それは、どうしても自分とは何ぞや? と言う問いに僕はぶつかってしまうからです。

 とても簡単に言えば。

 じゃあ、どうすれば良いのかな? と一日考えて見ると、それは先ほど引用したデビューした時の受賞の言葉の


 ――フィッツジェラルドの「他人と違う何かを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」


 に起因するのだと思います。

 僕の書く文章はまだ「他人と違った言葉」と言えるほどに確立されていません。あるいは、僕は本当に「他人と違う何かを語りた」いと願っているのかも分かりません。

 というか他人と違う何かってなんだろう?


 けれど何にしても、その「他人と違った言葉」を使う為には、書きつづけなければならない。世の中はよくできているなぁと思います。

 ひとまず、村上春樹が「風の歌を聴け」を書いたのが三十歳の頃でした。

 あと二年とちょっと。

 僕は僕が語りたい他人と違うものについて、そして、牡蛎フライについて書きつづける為の方法を考えていきます。

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