34 神の子どもたちは何処へ行くのか?
深夜にPC前に座りヘッドフォンをつけて、音楽を流した。
米津玄師の「リビングデット・ユース」がはじまって、僕は村上春樹の短編集の一編を読み出した。
「ファミリー・アフェア」だった。
職場の人に本を紹介して欲しいと言われたので、本棚の本をぼーっと見ていて結局、村上春樹の短編集にたどり着いた。村上春樹の長編には賛否両論あるけど、短編に関しては意外と好評な意見を耳にする。
個人的にも春樹の短編は面白く読んだ。
初めて読んだ春樹の短編集は「神の子どもたちはみな踊る」だった。
多分、高校一年生の頃だった。「ノルウェイの森」を読んだ後で、他のも読んでみようと思って古本屋で買った。
まず、タイトルが良かった。「神の子どもたちはみな踊る」。
神の子どもたちってどういう存在なのだろう?
中二病を引きずっていた僕としては、そこが気になった。
けれど、本編を読んだ時、「神の子どもたちはみな踊る」の一編は確かに面白いのだけれど、他に収録されたものと比べた時に素直で飲み込みやすい物語だった。
高校生の僕が飲み込みにくく考え続けてしまった話は二つ。
「UFOが釧路に降りる」と「アイロンのある風景」。
この二編の何が僕の中に引っかかったかと言えば、人生に対する理不尽さだった。
UFOが釧路に降りるは阪神淡路大震災の後、五日間ずっとテレビにかじりついて見ていた奥さんが突然、家を出ていった。
「もう二度とここに戻ってくるつもりはない」と書き置きがあり、その後を本編から引用したい。
――問題は、あなたが私になにも与えてくれないことです、と妻は書いていた。
もっとはっきり言えば、あなたの中に私に与えるべきものが何ひとつないことです。あなたは優しくて親切でハンサムだけど、あなたとの生活は、空気のかたまりと一緒に暮しているみたいでした。でもそれはもちろんあなた一人の責任ではありません。あなたを好きになる女性はたくさんいると思います。電話もかけてこないでください。残っている私の荷物はぜんぶ処分してください。
あんまりじゃないか? と思ったのを覚えている。
けれど、それが地震のような、災害の本質だとも思う。突然、なんの心の準備もなく悪いことが起る。
そして、「UFOが釧路に降りる」の最後はこう締めくくられる。
「でも、まだ始まったばかりなのよ」と彼女は言った。
この短編が掲載されたのは1999年8月号で、タイトルは「地震のあとで」だった。阪神淡路大震災が起きたのは1995年の1月17日だ。
四年近くが経っていても、それは「始まったばかり」だった。
当時の僕は「神の子どもたちはみな踊る」が阪神淡路大震災を下敷きに書かれた短編集だとは知らなかった。ただ、どの話にも地震が薄く関わってくるな、と思う程度だった。
地震による人生の(弱くも確かな)変貌を目の当たりにして、僕は考え込んだ。村上春樹の小説は強く「考えろ」と訴えかけてはこない。
けれど、静かに心の柔らかい部分を刺激してくる。
その刺激は無視しても問題ないくらいささやかだけれど、何に対しても無防備だった高校一年生の僕はずっとその刺激について考えてしまった。
人に何か小説を紹介してくれ、と言われれば村上春樹の短編くらいの距離感のものを選びたかった。
PCの横に置いた、村上春樹短編集を再度手に取った。さっきまで読んでいた「ファミリー・アフェア」のラストは以下のような内容だった。
――我々はいったい何処に行こうとしているのだろう、と思った。でもそんなことを深く考えるには疲れすぎていた。目を閉じると、眠りは暗い網のように音もなく頭上から舞い降りてきた。
阪神淡路大震災をモチーフにした連作短編を発表する時、「地震のあとで」とタイトリングする春樹だ。
我々はいったい何処にいこうとしているのだろ。
そう問いかけてくれることが村上春樹の短編の優れた点なのかも知れない。
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