33 小説に選ばれるという体験。
2013年10月の群像で「特集 はじめての小説」というのがありました。
どんな作家にも「はじめての小説」があったはずです。作家ではないのに書き始めた一作目。
彼らは何故、小説を書き始めたのか?
それを語るのが「はじめての小説」の特集の中にあった鼎談「《はじめての》小説ができるまで」角田光代×高橋源一郎×本谷有希子でした。
この三名が自分の「はじめての小説」を語る?
最高じゃねーか、と速攻で買ったのを憶えています。
更に、その特集の中で再録とあって《1991年群像新人文学賞当選作》の多和田葉子「かかとを失くして」が掲載されていました。
僕が生まれたのが1991年なので、僕の年齢だけ時間が経った多和田葉子の一作目がそこには載っている、というのは不思議な感じがしました。
散々、自分が生まれていない時代の作品を読んでいたくせにです。
変なもので、八十年代や七十年代の小説を知らない時代として読むのに、九十年代の小説に関しては知っている時代を読む感覚になります。
生まれて九歳までの記憶なんて曖昧で、薄ぼんやりしているくせに、その時代の小説を読む時、僕はそこに居た、という自覚だけで、知っているものとして読もうとします。図々しいことこの上ないですが、八十年代や七十年代の小説よりは理解できるんじゃないか? という期待はどうしても捨てられません。
そうして知るのは、時代を理解するのに必ずしも「その時」を生きていなければならない訳じゃない、という事実です。
明確な知識を持ってさえいれば、僕たちは生まれていない時代の小説を正しく理解し、その小説世界に入り込むことができます。
さて、少々話がズレました。
多和田葉子の話です。彼女が「はじめて小説」を書く動機を、川上未映子との対談で語っていたのを読んだことがあります。それがとても良かったので引用したいと思います。
まず、川上未映子が「小説を書かせる原動力があるとしたら、それはいったい何なんでしょうか。」と尋ねます。
ここで、おぉ! となるのは「小説を書く原動力」とは言わず、「小説を書かせる原動力」と言う川上未映子のセンスです。小説の方が多和田葉子に近付いているような感覚を川上未映子は抱いているのかな? とふと思います。
時々、この作家は書くテーマを自分で選ぶ、というよりは、テーマに選ばれて書かざるおえなくなって書いてらっしゃるな、と分かる人がいます。
昔、吉村萬壱のトークショーを見に行ったことがあるのですが、それに似たニュアンスをおっしゃっていました。やっぱり、そうなんだなぁと妙な納得をしたのを覚えています。
また、ズレました。
「小説を書かせる原動力」を尋ねられた多和田葉子の返答は「書くことが書くことを呼ぶ」というものでした。
小説を書き始めると溢れ出したものがたくさんあるが、書き進めていくと、実際に書かれたものより捨てる方が多くなる。その捨てられたゴミの自分たちはどうなるんだっていう圧迫によって、次の小説を書くのだ、と多和田葉子は言います。
それを受けて川上未映子は「そうだとするなら、一番はじめの出発点、前作がなかったときに書き始めた動機のようなものを覚えていますか。」と言います。
答えは以下のようなものでした。
多和田 それは読むことが圧力になっていたんだと思います。読んでいるうちに書かざるをえなくなっていた。でも、なんで読んだのかと言われると難しいな(笑)。
これこそが最も自然な動機なのではないか、と僕は思います。
本を読めば読むほど、それが圧力となって小説を書かざるをえなくなっていく。
小説の方に選ばれた作家というのが世の中には何人か居るのですが、そういう人たちは常に「読むこと」の圧力を語っています。
あくまで僕の主観から見た話ですが……。
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