32 役に立たないものを書く。
――努力すれば報われるという言葉がどれだけ虚しいかを実感した。
抜粋したのは、東山彰良の「路傍」の解説の書き出しです。
路傍は大藪晴彦賞を受賞しており、解説はその選考委員の馳星周が書いていました。解説では
――どれだけの努力も、天賦の才の前では色褪せるという事実を痛感したのだ。
と絶賛です。
実際、路傍は傑作で、流れるような文体と構成には感嘆する他ありません。
と言っても欠点がない訳ではなくて、例えば馳星周が書いてるのですが、路傍の主人公は無教養なチンピラなはずなのに文学的な教養に長けすぎています。
主人公の独白が文体となって心地良い本作ですが、台詞はチンピラのそれだが、脳内の彼の声は潤沢な知識に裏付けされた哲学に彩られています。
それが魅力の一つであると同時に欠点となっています。
こんなチンピラがいて堪るか、と。
けれど、こんなチンピラいねぇよと思いながらも、すいすいと読めてしまうし、いないからと言って小説に登場してはいけない訳ではありませんし、その哲学を持ったチンピラがあっちこっちで悪さをするのは魅力的です。
例えば、以下のような部分。
――まちがったことをしてしまったような気分で、俺は胸がいっぱいだった。どうしてだろう? 正しいことをすると、いつでもまちがったことをしてしまったような気分になるのは。ひょっとすると、自分を愛しきれてないのかもしれない。
ほんと、こんなにも的確に自分の感覚について言及できるチンピラは普通いませんから。
最後の「自分を愛しきれてないのかもしれない」は、どきっとする一言でもありますね。正しいことをしてまちがっていないと思う為には自分を愛していないといけない、訳ですよね。
僕はちゃんと自分を愛しきれているのだろうか?
周囲に合わせて、もしくは、誰かに褒められたり好かれる為に正しいことをしようとしていないだろうか?
百パーセントの濃度で否定できないのが辛いところではありますが、時々思う感覚としてあるのは、「今の行動を未来の僕が振り返った時に、『あ、自分のこと嫌い』ってならないかな?」というものでした。
○×みたいな行動を取る自分。
うん、嫌いって他人事みたいに考えて、選択肢を変える瞬間が僕にはあります。自分をちゃんと愛しきれているか、は分かりませんが今以上に嫌いにならない努力はしている。
それが今のところの僕です。
いつかちゃんと自分を愛しきってみたいものです。
さて、そんな東山彰良が「小説BOC3」でインタビューに答えていました。少々抜粋します。
東山 どんな作家も、一作目は作家ではないのに書き始めます。(中略)とりあえず僕に言えるのは「才能は関係ない」ということ。
その後に東山はオスカー・ワイルドの長編小説の引用をして「芸術とはみな、きわめて役に立たないものだ」と書いていると言います。
彼の「才能は関係ない」の着地点は、役に立つものを書こうと考えなくていい、ということでした。
役に立たないものを書くのに才能は関係ない。
少なくとも作家ではない人間が書く一作目であれば。
僕は思うのですが、そう言えてしまうことこそが天賦の才なのではないか、と。
そういう風に理解した方が楽だ、というのも分かっています。そして、そう理解した時に取りこぼしてしまう事実があることも分かります。
一作目の小説を書く時、必要なのは才能ではないと東山は言いました。では、何が必要なのか。
そして、一作目を書いた後の二作目からは「才能」がどのように関係してくるのか。
答えは薄ぼんやりとしか浮かんできません。
それはどうしたって書いてみて、初めて分かるものなのでしょう。
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