27 物語に始まりも終わりもない。
前回の吉行淳之介と江國香織の比較評論?
みたいな文章は昔、周囲にいた文学好きの友人たちに「吉行文学と江國文学って似てるよね?」
と言ったところ、「は? 全然似てねぇだろ?」と答えられてしまったからでした。
端的に言って悔しかったので、すげぇ似てんだろ?
ってことを言う為の文章を勢いで書いてしまったのが、前回のものでした。
ちなみに当時の僕の主張は、どっちも親が執筆業で世間的に知名度があったところとか、小説の他にもエッセイや詩を書いているところとか、作品内で人が死なないところとか、小説の核の部分はあくまで男と女のこととか、超似てんじゃん! ってことでした。
ただ、まぁそうは言っても、(親が執筆業ってこと)なら井上荒野は? とか、よしもとばななは? とかって話になってしまうので、当時の僕の視点があまりにも狭かったのだと、今なら分かります。
未熟な頃の僕の主張ですから、黒歴史と言って良いんでしょうが、読み返してみると意外としっかりとした理論があるような気がしたので掲載してみました(少々、手直しはしましたが)。
とくに夕焼け的な物語という言葉は、どこかの評論から引っ張ってきたのかも知れませんが、良い言葉じゃんとなりました。
決して性(セックス)が始まる夜にはいかない、いけない文学。
村上春樹がデビュー作で以下のように書きます。
――鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
実際、村上春樹のデビュー作と二作目は、どちらもセックス・シーンも人は死にません。描かれないだけで、その裏ではセックスも死もあったのだと思います。
ただ、それは放って置いても起こる「当たり前のこと」として、小説内では描かれなかったのだとすれば、村上春樹の小説を読む時には描かれないものについても考えなければならなくなります。
そして、それは小説全般について共通して言えることです。
物語は全てを語ることができない、というのは考えてみれば当たり前のことです。
丁度、グレアム・グリーンが「情事の終り」の冒頭で以下のように書いています。
――物語に始まりも終わりもない。どの時点から振り返るか、あるいはどの時点から先を語るか、人が経験の中から気まぐれに選んでいるだけだ。
つまり、僕たちが読む物語は作者が「気まぐれに選ん」だものを読んでいるに過ぎません。その裏には選ばれなかった語りが必ず存在しているはずです。
吉行淳之介も江國香織も選んで物語を語っていたはずです。
それが共通した「夕焼け」的物語だった、と言うのはやはり面白さを感じずにはいられません。と言ってみても、彼らは夕焼け的な物語から、しっかりと夜的な物語を書いてもいますし、恋愛の終わりも幾つも書いています(流的に、恋愛の終わりは朝か夜明けの物語?)。
夕焼け的要素は彼らに共通した一部のテーマに過ぎません。
村上春樹も初期の二作以降、「羊をめぐる冒険」からセックスと死のある物語を書いています。
作家の中でテーマは常に肥大化し、ふくらみ、複雑化していくのだと思います。
それ故に、本当に共通した作家などというものは存在しないのでしょう。一時期、似ることはあっても、まったく同じ道を進むことは決してありません。
だからこそ、作家の物語を読むことに面白さを僕たちは見出せるのだと思います。
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