23 ジャンプとして読む文芸誌。
前回、二〇一三年のエッセイを掲載してみた訳ですけど、本当に僕は高校時代にこんなことを考えていたんだろうか? とふと疑問に思いました。
今から五年前ですから、二十二歳の僕が高校二年生の僕を思い返している訳ですよね。こんなに感傷的な感情を抱いていたのか、僕としては疑問です。というか、絶対に盛ってるでしょう。半分くらい創作です。
絵を描いていたことと、手塚治虫に会ったというおっさんくらいでしょう、真実は。
――生きていくということは、磁石を引きずって砂場を歩くようなものかも知れない。
って、文章がどこからの引用なのかさえ、今の僕には想像もつかないのが現状です。こういう昔の自分の文章を読むと知識人ぶってんなぁと赤面しつつ(今もたいして変わりありませんが)、面白がっている自分もいるので不思議です。
ちなみに、二十二歳の頃の僕から見て高校二年の僕は、多分丁度五年前です。
その頃の僕はちゃんと小説を書いていたのか覚えていませんが、本を読んでいた記憶はあります。周囲に読書家な人が多くいて、彼らの勧めで純文学を読んでいました。
芥川龍之介賞や三島由紀夫賞や、川端康成賞や谷崎潤一郎賞という文学賞作品を中心に読んでいて、その流れで二〇一二年辺りから文芸誌を月に一冊は買っていました。文芸誌は五大文芸誌と呼ばれる、新潮、文學界、群像、すばる、文藝が中心でした。
現在も僕は文芸誌を毎月買っている為、単純計算で八十冊近い文芸誌が僕の部屋にはあるようです。もちろん、その全てを読んでいるわけではないんですが、一冊千円はしているので必ず面白がれる部分のある雑誌を買っています。
とくに面白いのは作家や評論家の対談で、テーマは千差万別ですが、喋るとキャラクター性が必ず出て来るので、「へぇ、この作家さん、こんなこと言うんだ」みたいな発見が必ずあります。そういうキャラクター性を知ると、その作家さんや評論家さんの文章を読む楽しみが広がります。
二十二歳の頃は丁度、そういう文芸誌を買う楽しみや新しい本の読み方みたいなものを発見している時期だったように記憶しています。毎日、大量の情報を摂取していたので僕が言うことは三日で変わる、みたいな状態だったのを覚えています。
あれはあれで楽しかったなぁ、と思い出します。今となっては、あの頃のようにコロコロと自分の考えを変えられなくなっています。
それが大人になることなんでしょうが、淋しいとも感じます。
未熟であり続けたい訳では決してありませんし、二十二歳の頃の生活に戻りたいかと問われれば即答もできません。そして、多分戻りません。
懐かしいと浮かぶ感傷は、それだけで美化していて実際にその時を生きている僕からすれば、「ふざけんな」と言われてしまうものなのでしょう。
ただ、そういう「ふざけんな」って言いたくなるような苦しい時期の僕の横には常に文芸誌があって、それをぱらぱらめくっていられたのは有難いな、とも思います。
これもまた感傷的な、美化した物言いですが。
僕はこれからも文芸誌の背表紙を見て、あぁあの頃に買ったものだなぁとか、あの時には理解できない文章だけど今なら分かるなぁとか思っていくんでしょう。
さながら、学生時代に毎週ジャンプを読んでいた頃のような、そういう気持ちを僕は今、文芸誌に抱いているのだと今になって気づきました。
更に五年後、つまり三十二歳の僕は、この文章を読んで何を想うのでしょうか。
多分、顔を覆って今の僕に対する呪いの言葉とかを呟いているんだと思うんですが、そんな未来の僕の本棚には五年分の文芸誌が並んでいるのでしょう。
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