22 高校二年の僕。

「手塚治虫に会った事がある」


 と、言うおっさんと昔、知り合った。

 僕が小説家なんて奇特な職業を目指す前、漫画家なんてやっぱり奇特な職業を目指していた。高校の一、二年の頃、僕は絵の予備校に通っていた。美大に行く気もないくせに、妙に良心的な月額を僕は払っていた。


 その予備校が高二の春に潰れることになって、他の予備校を幾つか紹介してもらった。その中の一つで、「手塚治虫に会った事がある」というおっさんと僕は知り合った。

 予備校と言っても、物凄くやぼったいアトリエだった。面白い授業を幾つかやっていた印象はあるが、申し訳ないことに今となっては覚えていない。

 結局、僕はそのアトリエに通わなかったし、予備校が潰れた機会に、絵をまったく描かなくなってしまった。

 絵を描かなくなって僕の日常は変わった。


 それまでは予備校に週四回通っており、休日は常にアルバイトで埋まっていたのだった。その為、平日の一日と予備校が終わった朝までの僅かな時間が僕の自由な時間だった。それが週四回の予備校がなくなったのだから、自由な時間が増えた。当たり前だけど。

 当時の僕は家を心地良く感じていなかった。なので、部活を始めた。美術部だったが、ほとんどの部員が絵を描いていなかった。僕は部室の隣にある図書室で本を借りて、部室で読んだり、仲良くなった部員とカラオケに行ったり、ゲームセンターに通ったりして遊んでいた。


 高校三年の春、携帯に着信があった。

 知らない番号だったけど、何の危機感もなく電話に出た。相手は「手塚治虫に会った事がある」おっさんだった。

「結局、ウチの予備校には来なかったんだね」と、言った後、「ちゃんと絵を描いている?」と尋ねた。

 いいえ、と僕は答えた。

 やめたんです、と続けた。


「あぁそうなの」

 とおっさんは、特に残念そうでも、嬉しそうでもない声で頷き、「じゃあ絵、描きたくなったら来なよ」と言って電話を切った。

 いやいや行かないっすよ、と思って携帯を学生服のポケットにしまった。その時、僕は駅のホームで電車を待っていて、ホームには鳩が餌を求めてトコトコ歩いていた。


 夕方の五時を少し過ぎた頃だった。来た電車の車内はがらがらで、すぐ座席に座れた。予備校に通っていた頃だと帰宅するサラリーマンが多い時間帯だった為に、いつも満員だった。

 乗り込んだ電車は一駅一駅ていねいに止まり、焦らすようにまた走り出す。その駅の幾つかは、予備校が潰れる時に紹介されたアトリエの最寄り駅だった。

 過ぎ去っていく町並みを見ながら「何か違うのではないか?」と僕は漠然と思った。

 けれど、何が違うのか分からないまま、下りるべき駅に到着した。僕はそこから更に自転車に乗って実家に帰らなければいけなかった。駐輪場にはうんざりするほどの自転車が停められていて、そこから自分の自転車を見つけるのに少し時間を使った。予備校に通っていた頃の時間帯であれば、自転車の数も少なくなっていて、時間を使うことも殆どなかった。

 自転車の鍵を解除した時も、やはり僕は何かについて考えていた。が、答えはなかった。


 ただ、言えることは絵を描かなくなって良かった、という事実だった。

 あのまま続けていても何の実にならなかった。けれど、じゃあ今の日々が身になるのだろうか。

 ペダルを踏んで自転車を漕ぎながら、やはり僕は考えていた。

 家に帰りつく頃に出した僕の結論は、このままの日々を消費したとしても、中学三年から描き続けた絵の経験は活かされないまま終わるだろう、ということだった。


 それは何だか勿体ないような、無様なような気持ちに僕をした。

 手塚治虫に会ったというおっさんは、そういう意味では上手いこと生かしているんだなぁ、と思った。

 手塚治虫に会ったと漫画家志望の子達に一番に言えるのだから。ちゃんと自分の経験を生かした生活を送ってる。


 ――生きていくということは、磁石を引きずって砂場を歩くようなものかも知れない。磁石に砂鉄が付着するように、頭のなかに何時のまにか断片的な知識や記憶が一杯くっついている。それら断片的な知識・記憶はそのまま立ち枯れてしまうことも多い。


 何かで読んだ文章が頭に浮かんだ。

 絵を描いていた、という経験、記憶はそのまま立ち枯れてしまうのかも知れないし、他の断片的な知識や記憶と共に一つの形を作るのかも知れない。それは磁石を引きずって砂場をできるだけ長く歩かなければ分からない。

 今、分かることは、僕は絵を描かなくなって良かったと思っているけれど、それが立ち枯れることを惜しく思っている。

 そういうことだった。


 ※今回のエッセイはUSBを整理していた時に出てきたものです。二〇一三年一月二十二日に保存されていました。

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