⑳ 「かわいい」と「イラッ」の矛盾。

 ネットカフェに行くのが昔から好きでした。

 理由は単純で実家にいた頃、家に人がいて何か用事があれば僕を呼ぶかも知れないっていう空間に耐えられなかったんです。絶対に一人の場所と時間が当時の僕には必要だったんです。

 あと、ネットカフェの良いところはお金が発生していることでした。


 時間をお金で買っている。そういう自覚を持つと、漫画を読むでもアニメを見るでも「何かを一つでも吸収して帰ろう」という気持ちになるんですよね。

 作家志望としての僕の安らぎと勉強の場はネットカフェでした。それは現在も変わっていないように思います。タイミングにも寄りますが、僕は月に一度はネットカフェへ行きます。

 そこで新刊の漫画を読んで、新しい漫画を探します。


 漫画は買い始めると膨大な量になってしまうので、ある時から僕は漫画を買わないようになってしまったんです。基本的にネットカフェで読む。そして、気に入った手元に置きたい漫画だけを買う。ただ僕は、お金がない時期が殆どですから、買うタイトルは限られてしまう訳ですが。

 そんな中で最近、ハマった漫画が二作ありました。かわかみじゅんこの「中学聖日記」と井上堅二原作・吉岡公威作画の「ぐらんぶる」です。


 もう、まったく毛色の違う作品ですが、僕はどちらも同じ熱量で好きです。読む時の手触りや、考えることはまったく違う訳ですけれども。

 ちなみに、学生時代の僕は三浦しをんの「まほろ駅前多田便利軒(直木賞受賞作品)」と蒼山サグの「ロウきゅーぶ!(アニメ化したライトノベル)」を喫茶店で交互に読む、という読書をしていました。そういう読書が僕は妙に好きでした。

 という訳で今回は、「中学聖日記」と「ぐらんぶる」の話をしたいと思います。


「中学聖日記」の冒頭は「隕石がよく落ちてくる町」という描かれ方をします。その隕石によって、人が死ぬこともある、と。

 調べてみると、「中学聖日記」の一話は読み切りだったらしく、続きを描いてと言われば描こう、くらいの心づもりだった、と著者がインタビューで語っていました。

 そんな訳で、「中学聖日記」の一話は収まりが良いです。思春期の苦しい感情がちゃんと描かれていました。これで終わっても確かに良い、と思わせる綺麗さ。


 けれど、続いていくと物語の奥深さに圧倒されます。

 話としては、十四歳の少年が、担任教師の女性に恋をする、というもの。ただし、少年が抱く感情は他の作品と違っています。


 ――なんでいつも「かわいい」と「イラッ」が同時なの?


 少年は担任教師の女性に対して、苛立ちを交えながら好意という未知の感情を抱えて行きます。大事なのは、少年は人を好きになったことが無かった、ということ。

 人を好きになる、という感情が剥き出しにに晒されてしまう、とここまで歪で、暴力的なのか、と。人間の本質は暴力だ、という意味のことはフロイトが「人はなぜ戦争をするのか」で書いていましたが、恋愛こそ本質的に暴力なのではないか? と思いながら僕は読みました。


 ふと、立ち止まって考えてみると、自分ではない他人を好きになってほしい、という感情が我儘でない訳がなく、暴力にならない訳もない。恋愛をする時、その人は既に自分ではない誰かを好きかも知れないし、自分に好意を向けてくれる人も近くにいるかも知れない。


 それでも、好きな人に好きだと伝えて、手に入れようとするのだ。行き過ぎた暴力がある時、美しく、神々しくなる瞬間がある、と舞城王太郎の小説を引き合いに出して、ある評論家が書いていた覚えがあります。


 中学「聖」日記。

 素晴しいタイトルだと思います。暴力(恋愛)は時に「聖」的なものになるのかも知れません。

 あ、「ぐらんぶる」の話ができていない。

 それは次回に。


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