⑬ 秒速5センチの成熟と失語。
一つ前のエッセイで成熟という言葉を使って、僕はふと考え込んでしまいました。「成熟」を調べてみると、以下のように出てきました。
1、(くだものや殻物の実が)十分に実ること。(人間の体や心が)十分に成長すること。
2、(情熱や機運が)熟して適当な時期に達すること。
ふむ。
(人間の体や心が)十分に成長すること。
という部分がある以上、一つ前の「成熟」の使い方は大きく間違っていなかったようです。良かった、良かった。
成熟という言葉を使うと、まず浮かぶものがあります。
江藤淳「成熟と喪失」です。副題は「――“母”の崩壊――」です。これがまた凄い文芸批評であり、戦後批評なんです。
僕はある時期、戦後文学を読むことで戦後日本を勉強する、という謎の試みをしたことがあります。
戦後作家は細かく世代で別れていて、それが「第一次戦後派作家」「第二次戦後派作家」「第三の新人」「新世代の作家」「内向の世代」「全共闘世代」です。
一つ一つ説明していきたいですが、それは今後していくことにして、今回の「成熟と喪失」でピックアップされたのは「第三の新人」です。そして、僕は「第三の新人」が一番好きです。
江藤淳は第三の新人の安岡章太郎の「海辺の光景」を引き合いに、以下のように書きます。
なぜなら「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認することだからである。
つまり成熟とは喪失(痛み)が伴う体験である訳です。
すると、です。僕は一つ前で、秒速5センチメートルを引き合いに出して、「過去の輝かしい記憶だけを大事に抱え込んで日々弾力を失っていく人間」と書きました。
それは間違っていないとは思っています。まず、秒速のキャッチコピーが「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」ですから。
もう、女々しさマックスです。
けれど主人公は最後の最後まで成熟しなかったのか? と考えると、うーむと考えてしまいます。
最後の山崎まさよしの曲が終わった時、踏切を渡る際にすれ違った女性を「僕が振り向けば、彼女も振り返る」と思った後の、だけれど向こう側には誰もいないと分かった瞬間。
秒速の主人公はほとんど完璧に喪失を受け入れたように見れなくありません。と、考えさせられてしまうことが新海誠の狙いだったのかも知れませんが。
ひとまず、僕にとっての「秒速5センチメートル」は主人公が過去の輝かしい思い出を喪失することで、成熟する物語として見ました。
そういう意味では青春を超えた物語である訳ですが、僕はそこに一つの不満を抱えていました。秒速の主人公は自分の思いを言葉にすることが出来ていなかったんです。
美しい映像と、素晴しい曲によって、誤魔化されてしまった失語。そこにこそ、秒速の主人公の本質があるはずなのに。何も語ることができなかった(それに意味があったと言われれば、その通りですが)。
そんな失語症にかかった秒速の主人公を引き受けたのが、秒速5センチの次に発表された「言の葉の庭」だったのだと言うのが、僕の考えです。
言の葉の主人公の最後の不器用で、どうしようもない気持ちの吐露は不必要だった、と言う人もいます。少なくとも僕の周囲にいた友人の「言の葉の庭」の評価はあまり良くありません。
確かに最後の彼の言葉は、あまりにも幼稚で無様です。
また会話だけの気持の吐露で、問題を解決しようとするのも、やや強引な印象を与えてしまいます。それが「言の葉の庭」全編で通しての執拗に描かれた雨の中であったとしても、です。
けれど、僕はそのシーンが異常なまでに好きでした。
それは失語症にかかった人間が言葉を取り戻した瞬間のように感じたからであり、同時に喪失に対するあまりにも素直な対応にも思えました。
喪失することが成熟するのだとしても、その瞬間に浮かぶ痛みを平気だと言う必要はない、と言うのが僕の考えです。
痛くて苦しくて悲しいなら、そう言おう。
成熟はその後で良いんです。
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