⑩ 多様性の世界で。

 2017年11号の新潮に古川日出男が「野生の文学(ワイルド・リット)を追って」という評論を書いていました。その冒頭に古川日出男がフィンランドでおこなった講演で読んだ文章が掲載されていました。

 タイトルは「一つの世界?」で、その講演は以下のような言葉で締めくくられます。


 ――多様性こそが文学の鍵だ、と、そう告げて、ひとまず私のスピーチを終えます。


 この講演は本当に素晴らしい内容で、こういった文章を教科書とかに収録されるべきなんじゃないか? と真剣に考えてしまうほどでした。

 世の中には本当に良い文章や考えさせられる文章で溢れかえっているのに、それに出会える場所があまりにも少ない気がしてなりません。

 けれど、それは東浩紀が「弱いつながり」で書いているように、僕の環境がそういうものであるからだ、とも言えます。僕が良い文章や考えさせられる文章に出会う環境にいないだけ。


 実際、僕の周囲にいる人間は殆ど本を読みません。読んでも自己啓発本ばかりです。物語を読む人がまったくいない訳ではありませんが、やはり数は少ないです。少なくとも、古川日出男や東浩紀の名前は知りません。

 もちろん、それはそれで良いと思います。僕は僕が好きなものを読んでいるだけですし、他の人も思い思いの楽しいことをするべきです。


 ただ、僕が見逃している良い文章や考えさせられる文章を知ることができる環境に身を置いておきたい、と考えるだけです。多様性こそが文学の鍵だと古川日出男が言うように、僕はその多様性を手に入れたいと願っています。

 と同時に、こうも考えています。

「偉い人にはうかつに近づくな。こっちに十分の力がないうちは、むしろ逃げて逃げて逃げまくれ。」庄司薫「白鳥の歌なんか聞こえない」。


 十分な力。

 それが無ければ、偉い人の言ったことが全て、という状態に陥ってしまいます。それは多様性とは言えないでしょう。単なる偉い人の考え方をなぞった何か、でしかありません。

 学ぶ、という語源が「まねる」だった、と言う文章をどこかで読んだことがあります。だから、他人の考えをなぞり、真似ることが決して悪い訳でないと思います。


 昔、先輩に「自分の言葉で語れよ」と僕は言われたことがあります。自分の言葉ってなんだよ? と当時の僕は腹が立ちました。まず、僕たちが喋る日本語でさえ他人が作った、他人の言葉じゃねーか、と。

 ホント、昔の僕は屁理屈野郎だったんですね。


 ただ、今も僕は僕の言葉なんてもっているつもりはありません。

 僕の考えや、言葉はあくまでこれまで僕が読んできた物語や思想の蓄積でしかない、と思っています。そこにあるのは、好みか好みでないか、という選択があるだけです。

 そういう意味では僕は死ぬその瞬間まで、自分だけの言葉を持ち得ないと思っています。他人の物語や思想を語り、それを受けた誰かが更に何かを考えるきっかけになれば良い、と。どれほど、僕が考えたように語ったとしても、です。


 それは丁度、人間の肉体に似ているのかも知れません。

 僕は僕だけの肉体を持っています。ただ、それは全てが僕のものではありません。

 例えば流れる血液を僕は意識できませんし、それを操作することはできません。髪が伸びることを意識することはできませんし、それを止めることも早めることもできません。

 肉体が病気を抱えても、それを痛みや疲労と言う形で示してくれなければ、僕は気づくことさえできません。


 僕は僕の肉体を使ってできることは限られています。

 意識できず、制御できない部分が必ずあります。

 だからこそ食事や運動、環境と言った場で、自らの肉体を管理する必要があります。操作と言って良いかも知れません。


 僕の肉体は僕でありながら、別のものです。

 それは心や思想もそうなのだと思います。

 その為に、多様性(文学)が必要になるのだと僕は思います。


 心や思想を管理し、操作する為に。

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